
しし座
冷たく澄んだひかり

季節をこえた記憶の詩
今週のしし座は、「梅雨といへどもつらゝのひかりながむれば」(田中裕明)という句のごとし。あるいは、どこかで忘れかけていた精神の冴えを不意に思い出していくような星回り。
掲句では前半の14音(7・7)が一気に押し寄せ、最後の「ながむれば」の5音で息が抜けるように着地する構造になっていて、それが明確なストーリーを語っていないにも関わらず、鑑賞者に詩的なイメージがじわりじわりと広がっていくような感触を残し、通常の俳句の5・7・5よりも、むしろさざめくような内的な声の重なりや祈りに近いリズムになっているように感じます。
しかし掲句最大のインパクトは、家の中から眺めていた降りしきる梅雨の雨が、氷柱(つらら)の光のように見えると言ってみせた大胆さでしょう。夏とは正反対の冬の風物詩を持ってくるのは物理的にはありえないことですが、この季節感のねじれは「長雨(ながめ)」と「ながめ(眺め)」の掛詞(異なる意味の音的重なり)となっている下五と結びつくことで、過去の時間と遠くへのまなざしとの融合のなかで自然と解消されていきます。
すなわち、梅雨のじめじめとした空気感や雨音を感じつつ、窓の外の景色をなんとなく眺めているうちに、ふと冷たく澄んだ像がよみがえった。それはただ透明で美しい光を放つだけでなく、見る者の精神の奥にある、過去に経験した静謐、研ぎ澄まされた孤独の記憶をも呼び起こしていく。それを「ながむれば」とさりげなく言い切ってしまうところに、じつに作者らしい沈黙に限りなく近い詩情があるのではないでしょうか。
その意味で、6月11日に「善なるもの」を司る木星がしし座から数えて「隠れ家」を意味する12番目のかに座に移っていく今週のあなたもまた、懐かしいような新鮮なような不思議な気持ちになれる場所へと、できるだけ1人きりで訪れてみるといいかも知れません。
「俳句の理想は俳句の滅亡である」
これは明治44年(1911)に雑誌に寄稿された種田山頭火の『夜長ノート』からの一節。大正期に五七五や季語にとらわれない自由律俳句の旗手として脚光を浴びた山頭火が、他の自由律俳句に撃ち込んだ同時代の俳人と一線を画していたのは、こうした自身の文学理念をそのまま流浪の生活としても実践していった点でした。
例えば「分け入つても分け入つても青い山」や「まつすぐな道でさみしい」といった山頭火の句が多くの人を惹きつけたのは、その余りにまっすぐな表現の背景にある彼の生き様でしょう。
仏教に「捨身(しゃしん)」という言葉がありますが、実際に仏門に入った彼を突き動かしていたのはそうした「捨て身」の精神であり、どこで野垂れ死にしようが頓着しないという風狂の美学であり、彼に妻子があったことを思うとその徹底ぶりは尋常でなかったことが少しは伺われるはず。
つまり、室町時代の怪僧・一休を思わせるそうした時代を超えた風狂性と、伝統に反旗を翻すモダンなアヴァンギャルド精神の稀有な融合こそが、山頭火の真骨頂だったのです。
同様に今週のしし座もまた、自身がいのちを懸けてでも体現したい理想やビジョンを改めて思い出していくことがテーマとなっていくでしょう。
しし座の今週のキーワード
「捨て身」の精神





