
しし座
たとえば、星をみるとかして。

二つの世界のはざまで
今週のしし座は、『スティル・ライフ』の佐々井と「ぼく」の会話のごとし。あるいは、異星人の目をもって地球人として生きていこうとするような星回り。
大事なのは、山脈や、人や、染色工場や、セミ時雨などからなる外の世界と、きみの中にある広い世界との間に連絡をつけること、一歩の距離をおいて並び立つ二つの世界の呼応と調和をはかることだ。
たとえば、星を見るとかして。
これは池澤夏樹の小説『スティル・ライフ』の冒頭部分にある文章ですが、いったい読者をどこに連れていこうとしているのか、読むといつも不思議な気分になります。
まだ自分の生き方を模索中といった年頃の「ぼく」は、アルバイト先の染色工場で知り合った佐々井という友人との会話を通して、頭の中の文法的規則そのものに手を入れるような衝撃をうけ、新しい質の抒情性を獲得し始めたところで、佐々井は「ぼく」と読者の前からあっさり姿を消してしまい、そうして後には彼と交わした会話だけが残るのです(下記の最後の会話では「ぼく」が佐々井で、「きみ」が主人公)。
「でも、ぼくは徹底して地球的な人間だよ。しばらく前までは、人はみなぼくみたいだった」
「しばらく前って?」
「一万年くらい。心が星に直結していて、そういう遠い世界と目前の狩猟的現実が精神の中で併存していた」
「今は?」
「今は、どちらもない。あるのは中距離だけ。近接作用も遠隔作用もなくて、ただ曖昧な、中途半端な、偽の現実だけ」
「しかし、それでも楽に生きていけるように、人はそのための現実を作ったんだよ。安全な外界を営々と築いたのさ。さっきも言ったように、きみの方が今では特別な人間なんだ」
「知っているよ」
5月4日に自分自身の星座であるしし座で上弦の月(行動の危機)を迎えていく今週のあなたもまた、まわりのみなが生きているような中距離的な「現実」を飛び出して、心を星に直結させたり、目の前の狩猟的現実に集中したり、それらの呼応と調和を図っていくべし。
只、感じ得るばかり
作家の中島敦が20代前半から書き連ねた私小説『北方行』には、作者がみずからを投影させた主人公・三造が次のように語っている場面が出てきます。
いつのころからか、彼は、自分と現実との間に薄い膜が張られているのを見出すようになった。そして、その膜は次第に、そして、ついには、打ち破り難いまでに厚いものになって行った。彼は、その、寒天質のように視力を屈折させる力をもつ、半透明な膜をとおしてしか、現実を見ることができなくなってしまった。彼は、ものに、現実に、直接触れることができない。彼がものに触れ、ものを見、又は行為する場合、それは、彼の影がものに触れ、ものを見、又は行為するのである。
そうして、中距離的な「現実」に直接つながれなくなり、どうしても生きている実感を得るところに近づくことができないという焦りについて、三造は続けてこう漏らすのです。
生きている、とは、どういうことか。人はそれを知ることはできない。只、感じ得るばかりだ。そして、その真実の生命の焔を常に全身の脈管に感じつつ、生きて行く事こそ、人間の、というよりは生物の―理屈も何もない―本然なのではないか。
こんな風にいくら自分に言い聞かせても、「真実」や「生命」といった言葉や概念の抽象性はどこまでもぬぐい切れず、それもの自体のなまなましさは捉えられないでしょう。
とはいえ、今週のしし座であれば、自分が追い求めているような生の実感がより一層鮮烈に輝きはじめるさまを感じることができるかも知れません。
しし座の今週のキーワード
中間距離の関わりを切り捨てる





