
しし座
消え入りそうで消えない私

もう一つの自我の理想
今週のしし座は、『千年やそよぐ美貌の夏帽子』(摂津幸彦)という句のごとし。あるいは、ゆらめきそよぎつづける何かとして、みずからを解放していこうとするような星回り。
作者はある句集のあとがきで、自身の底流をつらぬく「私」探求の試みについて、次のように述べています。
何故に書くかという問に対する答の一部に、どうやら、私は私らしいものでありたいとする希望が含まれるらしい。しかし、何故に、私が私であってはならないのかと反問するや、再び何故に書くのかという問が重たく私にのしかかってくる。私がまさに私である時、一体、私は何を何故に書こうとするのだろうか。(『與野情話』)
掲句にしても、おそらく作者が偏愛していたのであろう「夏帽子」というどこか昭和前期のノスタルジーを思わせる風物を、「千年」という気の遠くなるような時間の中に配置しつつ、そこにかすかな風をそよがせています。
つまり、安定した自己同一性を保った「私」といった西洋思想由来の発想とは対照的な、「風」や「ゆらめき」や「流れ」としての「私」が、実際どのように実現されているかを、この句は流動のままに定着させようとしているのでしょう。
それは「~とは何か」という問の答えとして与えられる、本当の意味で存在する実体としての「私」を、「空」や「無常」といった東洋的な観点から相対化され、消えかかったその残滓であり、言わば解きほぐされかけの肩こりのようなものなのかも知れません。
4月18日に自分自身の星座であるしし座へと火星が移っていく今週のあなたもまた、確固とした「私」なんて消えてしまうくらい徹底的に、もんで、ほぐして、消え入ってしまうといいでしょう。
「あわい」の感覚
ほんとうに劇的な変化とは、むしろ弱弱しい微妙な変化にこそ潜み、稲垣足穂が『一千一秒物語』で描写した、パンっと影がはじけたとか、シガレットの煙が逃げたとか、「ちょっとしたこと」のうちに宿るもの。
松岡正剛はそうした何かが起こりそうな気配がおこる、かすかで微妙なトランジット場面のことを「トワイライト・シーン」と呼び、それを手っ取り早くつくってくれるのが夕方だったのだと指摘しました(『フラジャイル』)。
夕暮れどきが「たそがれどき(誰そ彼どき)」と表現されてきたのも、人びとが誰それという指定からも、どこどこという目的のある区域からも離れ、ただ何ものでもないanybodyに溶けだし、したがって「誰ですかあなたは?(who are you?)」と尋ねられねば分からない状態へと自然と変わってしまう刻限だったから。
つまり、そうした「たそがれ」的な環境に身をあずけていくとは、そのまま肩こりのような「私」をほぐすことであり、ふうっと「あちら」と「こちら」、「私」と「私でないもの」を繋げてしまうことを言ったわけです。
今週のしし座もまた、こうしたおぼつかない「あわい」の感覚に身を添わしていくことで、かえって自然と自分自身の存在感を発揮していきやすくなるでしょう。
しし座の今週のキーワード
「失礼ですが、どなたですか?」





