
しし座
世俗のあぶらを落として

私たちはなぜかくも無責任なのか
今週のしし座は、ハイデガーの「世人(ひと)」批判のごとし。あるいは、世間から提供される「当り前」に固着している状態を少しでも克服しようとあがていくような星回り。
「赤信号みんなで渡れば怖くない」というのは日本人的気質をよく表した言葉ですが、こうしたそこに同調してさえいれば安心できるがゆえに平気で普遍的規範さえ無視してしまう「みんな」について、ハイデガーほど徹底して批判した哲学者はいないでしょう。
ハイデガーは「世人(ひと)」や「現存在」という独自の概念を使って、私たちが容易に「みんな」に飲み込まれ、責任の主体となる可能性を奪われてしまう傾向について、次のように綴っています(「世人」=みんな=世間=空気、「現存在」=個々の人間のこと)。
世人はいたるところに居合わせてはいるのだが、しかしそれは、現存在が決断を迫るときには、いち早くつねにこっそりと逃げ出してしまっているという風に、居合わせているのである。けれども世人は、すべての判断や決断を前私しておくゆえ、そのときどきの現存在から責任を取り除いてやる。世人は、誰もが不断に世人を引き合いに出すということを、苦もなくやってのけうるのである。世人はいとも容易にすべてのことの責任を負いうるのだが、それは、誰ひとりとして或ることのために責任をもつ必要のある者ではないからなのである。(原佑・渡邉二郎訳)
赤信号を渡っている時、現存在は「自分もそうしなければ」「それ以外に選択肢はない」という心理状態に陥っており、仮にそのことを糾弾されたとしても、悪いのは「みんな」であって自分ではないのだというロジックで、自分を納得させ正当化してしまうのです。
2月5日にしし座から数えて「世間体」を意味する10番目のおうし座で上弦の月(行動の危機)を迎えていく今週のあなたは、何が正しいかをはかる基準において「みんな」や「世間」を引き合いに出すのをやめてみるところから始めていくべし。
ある男の中の純粋さと明晰さ
戦後まもない娼婦の街を舞台にした吉行淳之介の短編小説『驟雨』は、大学を出て3年目の独身サラリーマンである山村という男性が主人公なのですが、彼は「精神の平衡をつねに保っていたい」という理由から女性関係はもっぱら娼婦に通うことに限定しているという、年の割には老成した考え方の持ち主でした。
ところが、「この町から隔絶したなにか、たとえば幼稚園の先生の類を連想させた」、「若い美しい保母」のような道子という娼婦と出会い、彼女のいるお店に通い続けるうちに、ミイラ取りがミイラになって嫉妬に苦しみ始めます。
ただ、一方で「(娼家の風呂に入って)すっかり脂気を洗い落としてしまった彼の髪は、外気に触れているうちに乾いてきて、パサパサと前に垂れさがり、意外に少年じみた顔つきになった」とあるように、自分のなかに老成した大人と純粋な少年が同居していることに山村は次第に気付いていきます。
つまり、普通は愛情と呼ぶものの中に少なからず混入された計算やエゴイズムに気付かない鈍感さや、偽善・自己欺瞞を許容できない純粋さと明晰さこそが、そうして彼を娼婦の街へ赴かせる原因となっていたことが明らかになっていく訳です。
今週のしし座もまた、そんな風に自身の言動の背後に潜むものを見つめていくことがテーマとなっていきそうです。
しし座の今週のキーワード
世人はどこにでもいる





