しし座
真剣に遊ぶということ
虚空のうちに遊ぶ
今週のしし座は、『コスモスの花あそびをる虚空かな』(高浜虚子)という句のごとし。あるいは、ますます阿呆になっていくふりをしていくような星回り。
「コスモス」はおなじみの秋の花で、胸のあたりまでくるほどに丈が高く、しかも群生しているので、ゆらゆらわちゃわちゃとなんだか気持ちよさそうに風に揺れているさまは、遊んでいる幼い子どもたちそのものと言えるかもしれません。
そしてそんなコスモスの上には、どこまでも高く突きぬけるように広がる秋の空があり、その壮大な青空はまさに「虚空」と呼ぶにふさわしいスケール感の大きさを感じさせてくれます。
すると、気ままに風で遊んでいるコスモスの花たちは、まるで母なる虚空のふところに抱かれているようでもあり、掲句を繰り返し読んでいるだけでも、読者の内で遊ぶ子どもの無邪気さと母子一体の深い安心感とがおのずと結びついてくるはず。
ひるがえってみると、小さなコスモス(花々)と大きなコスモス(宇宙)のはざまに立っている人間が一番あそびが足らないのかも知れません。
その意味で、9月11日にしし座から数えて「創造性」を意味する5番目のいて座で上弦の月(行動の危機)を迎えていく今週のあなたもまた、2つのコスモスに負けないくらい、どこまで「あそびをる」ことができるかが問われていくでしょう。
「見られる芸能」から「見せる芸能」へ
それにしても、そもそも「あそびをる」とはどういうことなのか。ここで思い出されるのは、そもそもの芸能のルーツには、負けた側である兄の海幸彦が勝った側である弟の山幸彦の前で、自分たちが負けた際の無様なさまを演じてみせたという、古事記の神話があることです。
つまり、芸能の歴史とは芸能者が一方的に「見られる」という状況を、どうにかして「見せる」ものへと変えることで主体化していこうという試みの歴史だったのだと言えますが、その大きな転換点の一つが能を集大成した世阿弥でした。
例えば、「芝居」という言葉にあるように、かつて芸能は文字通り芝の上、つまり地面や床で芸をさせられ、それを上にいる観客たちに「見られ」ていた訳です。しかし、世阿弥は「能舞台」という装置を発明することで、舞台の上で芸能者が舞い、それを下にいる観客たちに「見せる」という関係へと逆転させていった訳です。
こうして芸能は不当な差別や軽視を受けている側が、「見られる」ことを逆手にとって、いつの間にか優位に立っていくための逆転手段となっていった訳ですが、その意味で、「あそび」というのはそうとは悟られないように仕組まれた復讐行為に他ならないのかも知れません。
同様に、今週のしし座もまた、おだてられていい気になったり軽視されてカッとなったりするのとは逆の動きをしていくことで、つとめて老獪に立ち回っていくべし。
しし座の今週のキーワード
アホに見せてナンボ