しし座
懐かしい未来の感覚
復活の奇跡を
今週のしし座は、『万緑の中や吾子(あこ)の歯生え初(そ)むる』(中村草田男)という句のごとし。あるいは、いのちの重さの感覚をその手で直につかんでいくような星回り。
「万緑(ばんりょく)」は見渡す限り一面が緑に覆われていることの意ですが、漢詩から引用する形で作者がはじめて俳句に用いた初夏の季語でもあります。
幼児に歯が生えてきた。それは父親としてはこの上もない喜びである。あたかも5月、庭も山も、近景も遠景もみな緑一色に染まっていく頃合い。「万緑」という季語の大きさに比べ、子の歯は消え入りそうなくらい小さいが、親にしてみれば同じだけの重量感があったのでしょう。
生え初むる吾子の歯は、まさに風にそよぎ、揺れる青葉若葉と同様、あふれでる生命力の躍動であり、それを腕の中で受け止めることのできたことに、文字通り、復活の奇跡を見たのかも知れません(作者は亡くなる直前にキリスト教の洗礼を受けている)。
新しい季語を歳時記に収録されるまで定着させることは甚だ難しいことであり、それには優れた句が生まれなければなりませんが、ほとんどこの句のみで定着にいたったという意味でも、やはりこの句には尋常ではない生命力がほとばしっていたのだと言えます。
5月15日に自分自身の星座(“生命力”の座)であるしし座で上弦の月を迎える今週のあなたもまた、いったん死んでいたものが復活してくるような感覚に貫かれていくかも知れません。
失われつつあるということ
新しくてどこか懐かしい―。新季語であれ占いであれ、「発見」というのはいつだって、私たちにそんな感触を伴って与えられるものです。
例えば、岸本佐知子は『死ぬまでに行きたい海』に収録された父の郷里「丹波篠山」の名を冠したエッセイの中で、「いがぐり頭の十歳くらいの男の子が外から走って帰ってきて、井戸端に直行」し、たらいの中で冷やしてあるキュウリを「一本つかんでポリポリうまそうにかじ」っており、外では蝉が鳴いているという記憶を、このところ頻繁に思い出すのだと書いています。
しかし、その子どもとはおそらく自分の父であり、だからどう考えても理屈に合わない。そして、ときどき自分と妹をまちがえ、自分の名前さえ忘れてしまう現在の父に丹波の写真を見せても、ただ不思議そうに眺めるだけだという。父が子どもの頃、井戸水で冷やしたキュウリが好きだったのか、確かめる機会を著者は永遠に失ってしまったのだ。それを受けて、彼女は次のように書いています。
この世に生きたすべての人の、言語化も記録もされない、本人すら忘れてしまっているような些細な記憶。そういうものが、その人の退場とともに失われてしまうということが、私には苦しくて仕方がない。どこかの誰かがさっき食べたフライドポテトが美味しかったことも、道端で見た花をきれいだと思ったことも、ぜんぶ宇宙のどこかに保存されていてほしい。
今週のしし座もまた、記憶の中にある光景が今まさに失われつつあることを遠く想像してみるといいだろう。
しし座の今週のキーワード
失われてしまった過去を経由してはじめて現在と遭遇していくこと