しし座
行脚で気を通わせる
“進む、向かう”と“通る”
今週のしし座は、「魂の通路」としての森の抜け道を通っていく未開人のごとし。あるいは、歩くことの恩寵的感覚を取り戻していこうとするような星回り。
例えば、夜道でほのかに点った常夜灯が並んでいる様をずーっと眺めながら歩いていると、日中のどこか別の場所に向かってひたすら“進んでいる”時とは異なる、ある種の仕掛けとしての道路そのものの促しにしたがって“通る”ということが、ぼんやりと実感されることがあります。
それはいわば、移動手段としての歩行から、瞑想としての歩行への移行とも言えますが、そうして通っていると、「ふと」、とか「もののはずみ」が働いて、精神がそれ以前にはなかったような昂揚へと、いつの間にかたどり着いていたりする。
日本の仏教でも、座禅と同じくらい「行脚」ということが重視されていて、お経を唱えながら歩いていくうちに、どこか魂の大いなるところに通っていくようプログラムされていますが、未開人にもそうした様式はあって、彼らは暗い森を“浄化の森”と呼んで、なにか自分が変なものに憑りつかれてしまったと感じた時などにそこを通る訳です。
そこへ通り抜けていくうちに、もう一人の自分らしきものがうごめきはじめ、停滞したりどこかで詰まっていた気が通るまで歩いていると、やがて二人は統一されて、なにかが解消されていたりする。すると、暗い森を抜けて、明るいところへ戻ってこれるんですね。
同様に、11月8日にしし座から数えて「パワースポット」を意味する4番目のさそり座後半に太陽が入り立冬を迎えていく今週のあなたもまた、“行く”と“戻る”が同時にあるような場で自身に血を通わせてみるといいでしょう。
岬をめぐる
古来、岬をめぐることは船乗りたちにとって非常に厄介な冒険でしたが、それは地上を行く旅人にとっても同様でした。その付け根の部分を直線的に横切ることができれば短時間で済むのですが、大抵はそれがかなわず、海沿いに岬をぐるりと経由しようとすると思いがけず長い時間を要するのです。
つまり、交通において岬はつねに余計な迂回や遠回りであり、寄り道や逸脱を含み、時間においては空白ないしカット編集されるべき無駄を意味するのです。そして、どこまでも長くのびる岬の尖端へ向かって歩を進める者は、その道すがらこう思うはず。「岬のむこう側にはなにがあるのだろう?」と。
岬の尖端に向かうにしたがって波は荒くなり、波しぶきの中で岬はますます霞んでいく。岬の尖端はつねにこちらの“彼方”にあるのだ。けれど、尖端は存在しない訳ではなく、尖端が存在しなければ岬は岬ではなくなる。にも関わらず、いつまでたっても尖端には達することができず、それは「どこにもない場所」として中空に漂い続ける。
歩を進める限り、尖端との距離は縮小し続けるが決して無化されず、ゼロにはならない訳ですが、だからこそ岬にはつねにそれ自体のうちに「原初の暗い森」を内包しているのだと言えるでしょう。その意味で、今週のしし座もまた、どこかでおのずと足が“岬”に向かっていくことになるはず。
しし座の今週のキーワード
行方不明になること