しし座
私は誰?
不遇の犬
今週のしし座は、『秋の暮不遇の犬は川沿いに』(和田悟朗)という句のごとし。あるいは、これまで言葉にならなかったモノやコトが言葉になっていくような星回り。
この句に出てくる「川」とは、作者の家の前に流れていた「天上川」でしょう。同地で阪神・淡路大震災とも並び語られる阪神大水害(1938)の際に大洪水を引き起こしたのは隣接する住吉川でしたが、天上川は川とも言えないほどの細い流れです。
どことなく藤原定家の「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ」という歌を連想させますが、こちらの句の方がより物語性を感じます。何もない粗末な風景に、秋の夕暮れが訪れて、いよいよさみしげになってきたまさにその時「不遇の犬」に出会った。
その「犬」は見るからに野良犬然としていて、行く当てもなく、餌か何かをもとめてふらふらと道をほっつき歩いていた。そしてふとそこに、懸命に鼻を利かせ、長年に渡りわびさびを追って右往左往してきた、自分自身の来し方が重なったのかもしれません。
ずいぶんいろいろなところを訊ね歩いてきたが、探しものは見つからなかった。それがゆえの「不遇」なのだとすれば、これは作者自身を超え、人生そのものの普遍的な隠喩とも言えるのではないでしょうか。
15日にしし座から数えて「再発見」を意味する3番目のてんびん座の新月から始まる今週のあなたもまた、立派なものでなくてもいい、身の丈にあった言葉を紡いでいくべし。
「あわい」の感覚
ほんとうに深い物語性とは、むしろ弱弱しい微妙な変化にこそ潜んでいるものです。例えば稲垣足穂が『一千一秒物語』で描写した、影がはじけたとか、シガレットの煙が逃げたとか、そうした「ちょっとしたこと」のうちに。
松岡正剛はそうした何かが起こりそうな気配がおこる、わずかなトランジットの場面のことを「トワイライト・シーン」と呼び、それを手っ取り早くつくってくれるのが夕方だったのだと指摘してみせました(『フラジャイル―弱さからの出発―』)。
夕暮れどきが「たそがれどき(誰そ彼どき)」と表現されてきたのも、昼の太陽の下では明確に規定されていた人びとsomebodyが、次第に何ものでもないanybodyへと溶けだし、したがって「誰ですかあなたは?(who are you?)」と尋ねられねば分からない状態へと自然と変わってしまう刻限だったからで、そこに身をあずけていくとは、そのままふうっと「あちら」と「こちら」を繋げてしまうことでもある訳です。
今週のしし座もまた、こうしたおぼつかない「あわい」の感覚に身を添わしていくなかで、おのずと問いかけに対する答えを得ていくことができるはず。
しし座の今週のキーワード
who are you?