しし座
人間らしさの再編成
単なるクリーチャーを超えて
今週のしし座は、『妖怪人間ベム』の今日性のごとし。あるいは、従来の「一人前(の人間)になる」の定義を書き換えていこうとするような星回り。
『妖怪人間ベム』は1960年代という激動の時代のさなかに制作されたテレビアニメであり、主人公にあたる「妖怪人間」は、人間の血液と遺伝子をあつかう実験室の片隅で、「ひとつの細胞」が謎の液体の入ったガラス瓶のなかで分裂を繰り返すうちに、瓶から這い出したことで、ある種のクリーチャー(化け物)として生まれました。
発達段階の異なる3つの生命体としてほぼ同時期に誕生し、呼吸と歩行を始めた彼らは、ベム、ベラ、ベロと呼ばれ、姿は妖怪でしたが、心は人間であり、「本当の人間」になるべく、その方法を探しながら旅をしている。そして、旅の先々で、怪異に苦しむ人間たちを助けていくのです(どうも物語世界では人間の“共喰い”的状況が常態化している)。
彼らは「正義の血」に突き動かされ、人間のために命懸けで闘うのですが、戦闘時に人間への擬態をといて妖怪となるために怖れられ、かえって人間から迫害を受けてしまう。ここに「妖怪人間」の悲哀と愁いが立ち現れ、当時の少年少女たちも感情移入した訳です。
しかし、ここで留意しなければならないのは、かれらが人間から産まれずとも人間の系譜をもった新種であり、かれらが三者三様で現われたのは、いわばこれまでの進化系統がリセットされた末の、新たな分岐ないし起点としての役割を担っているという点です。そして、その中で彼らは人間を人間としてカテゴライズしているさまざまな境界や概念を変容させつつあったのではないでしょうか。
8月31日にしし座から数えて「変容」を意味する8番目のうお座で満月を迎えていく今週のあなたもまた、従来的な成熟や成長のモデルに対する見直しを今一度迫られていくことでしょう。
ベムたちの決断
アニメ『妖怪人間ベム』の最終回では、ベムたちがついに人間になる方法を偶然見つけます。しかしそれは、人間の犠牲と引きかえであったために、彼らはその実行を諦めます。時を同じくして、警察を中心とした街の人間たちが妖怪退治の一環として、怪しい目撃情報が多く寄せられていた近所の館に火を放つのですが、それはベムたちの活動拠点でした。館とともに炎に包まれた彼らは、焼け跡にコスチュームの一部だけを残して謎の失踪をするという形で、物語は幕を閉じるのです。
この最終回は、現実世界の大人たちの欺瞞(ぎまん)をある種の告発的トーンをもってあぶり出していますが、その一方で、ベラたちの「人間になる」執念の手放し方も際立っています。彼らが見つけた妖怪人間が人間になる方法とは、自分の魂を体から分離させて、生きた人間の体を乗っ取るというものであり、そこで彼らは逡巡しつつも次のようなやり取りをするのです。
まずベラが思い切って「人間になろうよ」とベムに持ちかけるのですが、ベムは「俺たちは今まで人間のためにいろいろな敵と闘ってきた。人間の力ではどうしようもない敵をわれわれ妖怪の力で倒してきたんだ。人間の世界には、人間に分からない敵がいっぱいいるんだ」と返します。そこでベラは、はからずも気付いてしまったことを、告げます。「あたしたちが人間になってしまったら、その敵を見抜けられなくなるんだね」と。果たして、ここで彼らは「人間にならない」ことを決意する訳です。
これを単に美しく哀しい美談としてくくるつもりはありませんが、少なくとも「全米が泣いた」といった宣伝文句を回収するがごとき予定調和的(ないし欺瞞的)な結末を免れたという一点だけでも、今週のしし座にとって大いに指針となっていくのではないでしょうか。
しし座の今週のキーワード
敵(=人間への怨念)を見抜くためには、既存の「大人」に自分をあてはめてはいけない