しし座
時には昔の話を
境涯から来たもの
今週のしし座は、『涼風の曲りくねつて来たりけり』(小林一茶)という句のごとし。あるいは、自身がこれまでため込んできた哀歓を見つめ直していこうとするような星回り。
前書きには「うら長屋のつきあたりに住て」とあります。長年にわたり拠点としてきた江戸を離れ、地元である信州に帰って居を構えてからの作品ですが、江戸での貧乏暮らしを振り返って詠んだのでしょう。
路地の先の、奥まったところにある長屋住まいの自分のところへは、涼風は容易にはやってこない。あっちこっちを曲がりくねりながら、ようやくわずかに吹き込むだけだ。
おそらく、ここには自身の歩んできた人生の紆余曲折ぶりも重ねられているのかも知れません。それほどに、全体のトーンは陰りを帯びており、「曲りくねつて」にどこか滑稽味は感じられるものの、かえって物悲しさを深めています。
わたしたちの人生には、時おりどうしてそんな結果になってしまったのか、どうにも説明しようのない出来事が起き、それにわたしたちは傷つき、振り回され、抗っては余計に足をとられていくうち、ゆっくりと水底に沈殿していく有機物のように、自分の内側に悲しさをため込んでいくもの。その意味で、作者の俳人としての来歴はそうした悲しさに背中を押されて続いてきたのだとも言えます。
8日にしし座から数えて「来歴」を意味する10番目のおうし座で下弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、たまにはとことん悲しくなっていくべし。
ふたつの後悔論のはざまで
人は後悔しても仕方のないことを後悔してしまうものですが、それはなぜか。後悔とは、いったい何のためにあるものなのだろうか。
たとえばスピノザは、後悔をめぐって「原因としての自己自身の観念を伴った悲しみ」(『エチカ』)としていますが、こうした消極的で何も生み出さないものとして後悔論に対して、田辺元は後悔を「懺悔」と表現して次のように書いています。
スピノザにては無力の無力を懺悔と言うが、未だに真に懺悔に徹したものと言う事はできない。私の懺悔にては、自己は自己の存在を要求する資格を放棄する事に依って、かえって自己の存在を自己ならぬものから受取る、すなわち無力が能力に転ぜしめられるのである。(『懺悔道としての哲学』)
こうした田辺の懺悔道としての後悔論を、積極的に擁護したい訳ではありませんが、たとえ後悔が自分が行ったことへの苦しみを伴うものだったとしても、やはり人生はどこに出しても恥ずかしくないような、晴朗たる清々しい感情によってのみ構成されるわけではない、ということは改めて強調しておいてもいいでしょう。
今週のしし座もまた、消しがたく心に残る割り切れなさ、やりきれなさをうすめて、忘れ去ろうとするのではなく、むしろそれらを掬い取り、記憶に残していくことの大切さを噛みしめていきたいところです。
しし座の今週のキーワード
後悔とは自分が他ならぬこの世界に根を張っていることの証し