しし座
底のぬけた柄杓
太陽の悲惨さ
今週のしし座は、『惨として日をとどめたる大夏木』(高浜虚子)という句のごとし。あるいは、自分の意志で人生を切り開いてなどいかないぞ、と力を抜いていくような星回り。
昭和22年夏の作。作者が疎開先である小諸から離れたのがこの年の秋ですから、この頃はまだ都市部の悲惨な状況は見ていなかったはず。そうすると、この句は空襲にあって焼け焦げた大木であったり、その大木がまだ空襲の記憶を惨めったらしくとどめている様子を詠んでいる訳ではないのでしょう。
むしろ、そこらの普通の夏木を見て、抱いた感慨をそのまま詠んだのかも知れません。つまり、ごく普通の樹の頭上はるかに輝く夏の太陽をふっと見上げて、「惨」という文字を思い浮かべたのです。
もちろん、そこには戦争の影響もあったのかも知れませんが、もっと根源的なところにある自然の、そしてこの世界の残酷さや無惨さのようなものを、作者は無意識に感じ取ったのではないでしょうか。
例えば、占星術的には太陽は「意志の力」を象徴していますが、過剰なまでに頑張ったり、頑張らせることで困難を乗り越えるという対処の仕方は、一回限りの“火事場の馬鹿力”として要請されるならまだしも、いったんそれで当然と思われたり、常態化されてしまえば、それは必ず本人の身を滅ぼす諸刃の刃として作用してくるもの。自分の意志で人生を切り開いてばかりでは、人間は疲れてしまうどころか、焼け焦げて死んでしまうことだってあるのです。
同様に、7月10日にしし座から数えて「行き着く果て」を意味する9番目のおひつじ座で下弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、頑張り過ぎや気負い過ぎにはご注意を。
芭蕉の「底のぬけたるもの」
例えば、俳聖とうたわれた松尾芭蕉はそれまでの言葉遊びやお約束事に縛られた俳句から離れて、独自の新しい道を開拓していったことでも知られていますが、俳諧に対する態度をめぐって「底のぬけたるもの、新旧の区別なし」という言葉を遺しています。
人は何か新しいものを創り出そうとして、往々にして既成の基準やそれまでの常識から出発してその圏内をまったく出られないまま終わることがほとんどですが、それについて芭蕉は新しいものと古いものをあまり短いサイクルのうちに求めてはいけないという言い方でいさめています。
さらに、真の「新」とは、「古」に対する「新」なのではなくて、いっさいの既成の基準に頼らず、ほとんど孤立無援の中で必死に求めなくてはならず、それがうまくいったのが「底のぬけたる」状態なのだと言うのです。
そうした意味では、今週のしし座もまた、過去や他人との比較を通じた“相対的に”新しい自分を目指そうとしてやたらと頑張ろうとするのではなく、感覚や論理が一変してしまうところまで自身の「底をぬく」ことで、こざかしき現実を突破していきたいところ。
しし座の今週のキーワード
「底のぬけたるもの、新旧の区別なし」