しし座
捨て尽くした先にしか見えてこないもの
一遍ふたたび
今週のしし座は、「捨ててこそ見るべかりけれ世の中をすつるも捨てぬならひ有りとは」と詠じた一遍上人のごとし。あるいは、人生の深刻な問題について、ひとりぼっちで反省するべし。
一遍は、この世の人情を捨て、家を捨て、郷里を捨て、己を捨てという具合に、一切の執着を捨てていった。その心は、彼が「わが先達」として敬愛した空也上人の教えであり念仏者の極意として、次のように語られている。
「念仏の行者は智恵をも愚痴をもすて、善悪の境界をもすて、貴賤高下の道理をもすて、地獄をおそるる心をもすて、極楽を願ふ心をもすて、又諸宗の悟りをもすて、一切の事をすてて申す念仏こそ、弥陀超世の本願にもっともかなひ候へ。」(『語録 上』)
こうして捨てることのレベルを上げて畳みかけていった先に、冒頭の一言がさらりと詠まれるのである。
いわく、捨てきれるだろうかというためらいさえも捨ててしまえばいい。あらゆるものを捨てた気になって初めて、捨てきれないものがあることに気付くのである、と。
今週の声に出して読みたい日本語は、冒頭の言葉に尽きます。
生きてることも遊行かな
一遍は正式な僧侶ではなく、「遊行」といって自己や人々を救済するための踊り念仏を各地で行うための放浪の旅をつづけた人でありました。
彼は踊り念仏を始める前に、一度還俗しており、そこで二人の妻をめとりそれぞれに子をもうけており、最終的にはその妻や娘を呼び寄せて一緒に諸国を行脚していったのだそう。
結局、彼が捨てきれなかったものは自らの家族であり、この世そのものだったのかもしれません。しかし、それも彼があらゆるものを「捨て続け」た先で、やっと見えてきたものだったと言えるでしょう。
いわんや現代の私たちをや。
今週のキーワード
「捨ててこそ見るべかりけれ世の中をすつるも捨てぬならひ有りとは」