しし座
素足と額
身ひとつでの体当たりを
今週のしし座は、『夏河を越すうれしさよ手に草履』(与謝蕪村)という句のごとし。あるいは、直接体験できる機会をこそ最優先していこうとするような星回り。
川をじゃぶじゃぶ渡っていく姿は、子どものように屈託がない。作者はくたびれた草履を手から吊り下げ、足で水の冷たさと川底の砂利がめりこむ感触とを感じる中で、歓喜で全身をふるわせているようです。
そもそも、草履を含めて「靴」というのは自然を克服する文明や文化の象徴として古くから語られてきましたが、歴史が現代に近づくほどに「靴」は自然な人間らしさから人間を遠ざける呪縛のようになってしまっているのではないでしょうか。
じっさいにこの世界を素足で、子どもや動物のように感じる機会は、掲句が詠まれた江戸時代と比べて現代ではめっきり減ってしまいましたが、その傾向はコロナ禍をへてますます加速化してしまったように思います。
そういう意味では、掲句はオンライン参加やレビューありきの選択が当たり前になりつつある現代の社会傾向に対して、「その場にいること」や「余計な知識や情報をはさまずに物事にあたること」など、直接的体験の称揚を伝える声という文脈で解釈していくこともできるはず。
6月4日にしし座から数えて「童心」を意味する5番目のいて座の満月に向け月が膨らんでいく今週のあなたもまた、へたな理論武装や二次情報、三次情報などはかなぐり捨てて、身ひとつで体当たりすることを大切にしていくべし。
人間らしくあるために
万葉集に「吾妹子(わぎもこ)が ひたひに生ふる 双六(すごろく)の 牡(ことひ)の牛の 鞍の上の瘡(かさ)」というおもしろい歌があります。うちの女房の額に生えた、すごろく盤の牡牛の鞍の上の腫れもの、という意味としてはまとまりのない戯れ歌なのですが、ここで注目したいのは「ひたひ」という言葉です。
これは「ひたい」の古語で“おでこ”のことなのですが、万葉集が成立した8世紀にはすでに深く頭を下げて礼拝することを意味する「ぬかずく」の「ぬか」という呼び方があるのに、ここでは改めて「ひたい」という言い方をしているのです。
「ひた」というのは「ひたすら」とか「ひたむき」という言葉があるように、字を当てれば「直」で、「ひたい」とはものに対しても人に対してもまっすぐに向き合う場所として考えられていました。つまり、対象が何であれ直接的に向き合おうとするのであれば、それは体でも眼でもなく、「ひたい」を通してだったのです。
「ひたい」の内側にあるのは大脳の前頭葉であり、ここは物事を考えたり、記憶したり、アイデアを出したり、感情をコントロールし、やる気を出したりといった、人間が人間らしくあろうとする上で最も重要な部位であり、古代人は人体解剖をした訳でもないのに、こうしたことをよく分かった上で「ひたい」という言葉を使っていたのでしょう。
今週のしし座もまた、「ひたい」を通して/「ひたい」に向かって物事や相手と接していくことを意識してみるといいでしょう。
しし座の今週のキーワード
ひたすらに、まっすぐに