しし座
石を待つ
黙の中に跳ってゐる
今週のしし座は、「維摩の一黙」の場面のごとし。あるいは、言葉の行き着く先をきちんと把握し、それと一体化することを大切にしていこうとするような星回り。
在家者である「維摩(ゆいま)」という爺さんが、出家者である並みいる菩薩たちを相手に議論を交わし、次々とやりこめていくという、極めてアナーキーかつ異色の大乗仏教経典である『維摩経』は、「どうすれば“不二の法門”すなわち悟りの世界に入れるのか?」という問いかけに30人以上の菩薩が答え終わったあたりからクライマックスに入ります。
最後に維摩から答えを求められた「智慧」の象徴・文殊菩薩は、「私の考えでは、すべての存在や減少において、言葉も思考も認識も問いも答えも、すべてから離れること、それが不二の法門に入ることだと思います」と述べたあと、逆に維摩に意見を求めます。
周りにいたあらゆる菩薩たちが維摩の回答を固唾をのんで待ち、場の緊張が一気に高まったそのとき、維摩はついぞ黙して一言も言葉を発しなかったのです。「維摩の一黙、雷の如し」と称えられたこの場面について、禅学者の鈴木大拙は次のように述べています。
普通には維摩の一黙をその黙のところに解すのであるが、自分の考へではさうでない。この一黙は、不言不説ではなくて、凝然不動でなくてはならぬ。黙を言説の上に見ようとするのは浅い。印度流である黙のうちに維摩その人を見なくてはならぬ。黙の中に維摩は跳ってゐるのである。(『鈴木大拙全集〈第15巻〉』)
つまり、これはただ維摩の外に空虚な沈黙が広がったのではなく、あたり一帯に言葉では言い現わすことのできない真実味が満ちていたということでしょう。12日にしし座から数えて「向きあうこと」を意味する7番目のみずがめ座で下弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、ここぞとばかりに言葉の空虚な使用から脱していくことがテーマとなっていきそうです。
星と石
ロジェ・カイヨワが生前最後に残した著書であり、ギリシアの川神に託して自らの思想の遍歴を語った『アルペイオスの流れー旅路の果てにー』には次のような記述が出てきます。
私は石が、その冷やかな、永遠の塊りの中に、物質に可能な変容の総体を、何ものも、感受性、知性、想像力さえも排除することなく含みもっていることに気づきつつあった。
と同時に、絶対的な啞者である石は私には、書物を蔑視し、時間を超えるひとつの伝言を差し出しているように思われるのだった。
占星術では人間の中に星を読みますが、時にこうした「石」が読み取れる時があります。
いかなるテキストももたず、何ひとつ読むべきものも与えてくれぬ、至高の古文書、石よ……(同書)
つまり、人はときどき自身の中に密やかな言葉という名前の驚くべき沈黙を見出し、その前にひれ伏すのでも、踏みつけるのでもなく、ただそばに在っておのずから語り始めるのを待たなければいけない状況に直面するのです。その意味で今週のしし座もまた、みずからの内側に潜んでいる「石」のごとき沈黙としずかに向きあってみるといいでしょう。
しし座の今週のキーワード
時間を超えるひとつの伝言に聞き入る