しし座
風に身を委ねる
DNAレベルの記憶を
今週のしし座は、『薫風や横綱肩に子を乗せて』(村上鞆彦)という句のごとし。あるいは、サーっと見える景色が様変わりしていくような星回り。
「薫風(くんぷう)/風薫る」は、若葉のころに吹きぬけてくる風や、その感覚的な新鮮さのことで、掲句はまさにそんな颯爽とした空気感を、実に的確に具現化してみせた一句。
「子」にとって大人が感じる以上にはるかな高みにある「横綱」は、まさに峻厳(しゅんげん)な山のごとき存在であり、その肩に乗せられて感じる風や開けてくる視界など、ほとんど山頂と同じ位置にある雲海をそのまま歩いていく時のような非現実的な浮遊感を伴ってくるはず。
しかし古来より、新しい季節の訪れを告げ知らせる「風」というのは、よく見知った社会の内部で引き起こされる変化とは異質の、社会のはるか外部にある「世界」からもたらされるがゆえに、見える景色や肌感覚を根底から様変わりさせてしまうような新鮮な息吹きと考えられてきました。
つまり、私たちは掲句のような意味での非現実的な「薫風」を通常の知的処理の意味ではよく知らないと同時に、日本人として共有された身体性の奥深くに刻み込まれたDNAのレベルではよく知っているのではないでしょうか。そして、時どきふとした拍子に、その感覚を思い出しては、知的ないし社会的に凝り固まった自己を刷新していくのです。
20日にしし座から数えて「自己同一性の崩れ」を意味する9番目のおひつじ座で新月(日蝕)を迎えていく今週のあなたもまた、そうして奥深いところで自分自身を変えてしまうような“新鮮な息吹”を肌身で感じていくことがテーマとなっていくでしょう。
「たまたま」という風
例えば、第一次大戦中に誕生し、ほんのひと時のあいだ花開いては、慌ただしく消えていったダダイズムは、芸術運動の歴史における伝統への異議申し立ての極端な事例の1つであり、その運動の中心人物であるトリスタン・ツァラが「ダダは何も意味しない。(…)ダダは体系に反対する」と断言したように、それはあくまで一貫して純粋な否定として燃え上がった破壊と劫掠(ごうりゃく)の試みでした。
ちょうど「ダダ」という言葉自体が偶然に辞書から見つけ出した「お馬さん」を意味する幼児語を意味したとされているように、その運動では文化、政治、社会など既存のすべての体制を、惰性としての因果的必然性と見なして激しく否定することで、この世と向きあう私たちの脳裏から実用性という外観をひきはがし、純粋で混じり気のない「たまたま」が生みだす驚くべき新世界へと精神をいざなおうとしたのです。
その結果、アンドレ・ブルトンが「すべてを棄てよ。ダダを棄てよ」と叫んでダダと決別したように、みずからの運動化や体系化、組織化をも否定するという流れを余儀なくされた訳ですが、こうした偶然性と自由の切っても切り離せない関係は、今もなお個人においてより深く掘り下げられていく余地がたぶんに残っているはず。
その意味で、今週のしし座もまた、単なる無軌道のたぐいに出さないぎりぎりのラインで、その身を存分に偶然にゆだねてみるといいでしょう。
しし座の今週のキーワード
自分はかくあるべしと規定する規範を不意にすり抜けていく