しし座
社会実験する自由
踊る阿呆?見る阿呆?
今週のしし座は、『曖昧に踊り始める梅見かな』(野口る理)という句のごとし。あるいは、誰かとつながったり足を運んだりという活動に特別な新鮮さを取り戻していくような星回り。
早春に他の花に先がけて咲き始め、庭先などに芳香を漂わせてくれるのが梅の花。ただし、まだまだ気温も低く、寒さと乾燥で身体も固まったままであるため、梅をもっと間近で見ようとさまよう動きもどことなくぎこちない。
桜のように、道ばたのちょっとした空き地にシートを敷いて花見をしているような人たちもいないので、そうした身体的なぎこちなさは社会的な文脈によっても強化されてしまう。
「だがしかし」である。そうであるからこそ、「見る阿呆」でいるくらいなら、「踊る阿呆」の側に立ってやろうではないか、と。そんな奮起する者の昂ぶる心理が掲句の背後にはあるのではないでしょうか。
とはいえ、その「踊り始め」はあくまで「曖昧」なものであり、迷いのない、キレのある動きとは程遠いものかも知れない。しかし作者は先ほど述べた昂ぶりとは別に、そうした“迷い”や“覚束なさ”をどこかで楽しんでいるようにも見えます。
まるで自分がふたたび、巣から飛び立つ方法さえ知らなかったひな鳥の頃に戻ったかのような、特別な新鮮さを「梅見」のさなかで感じたのかも知れません。同様に、27日にしし座から数えて「社会的存在」を意味する11番目のふたご座で上弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、できるだけ「踊る阿呆」の側にみずからを立たせていくべし。
みずからを自由にしていける「自由」を
現代では「自由」と言えば、「小さな政府と市場の自由」を掲げる新自由主義のように、拡大する格差のなかでの残酷な自己責任論やその表裏としての強烈な上昇志向という文脈やその不可能性において使われることが多いのではないでしょうか。その点、17世紀のスピノザはそれとは異なる観点から「自由」ということを考えており、例えば主著『エチカ』の冒頭では次のように述べています。
自己の本性の必然性のみによって存在し・自己自身のみによって行動に決定されるものは自由であると言われる。これに反してある一定の様式において存在し・作用するように他から決定されるものは必然的である、あるいはむしろ強制されると言われる。
ふつう必然なら自由ではないですし、必然と対立する状態こそが自由とされていますが、ここで言われている「必然性」を「その人に与えられた身体や精神の条件」に置き換えてみると幾らか分かりやすいように思います。つまり、スピノザは人は自分に与えられた(身体的・精神的)条件をあらかじめ分かっている訳ではなく、掲句の「梅見」のように、さまざまな“実験”を繰り返しながら学んでいくことで、少しずつ人は自由になっていくのだと考えたのです。
今週のしし座もまた、まずはみずからの本質が踏みにじられている状態(「強制」)から脱していくことを最優先に、実験を試みていきたいところです。
しし座の今週のキーワード
おとなの自由工作