しし座
仏教という比喩
因果との闘い
今週のしし座は、仏教における「托鉢」という戦略のごとし。あるいは、「遊んでいる歯車」になっていこうとするような星回り。
仏教において「修業する」とか「仏教を信じる」というのは、この世的な執着から救済されたり、解脱することを目指して、それは因果論のままに流されているという状況とのあいだにどうにかして距離を取っていくということを意味します。
とはいえ、お坊さんであれ何であれこの世の歯車から完全に外れる訳にはいきませんから、お金を持ったり食べ物を食べたりするなかで、否応なく矛盾が発生してしまう。こうした状況を見据えて、仏教が伝統的に取り入れられてきたシステムに「托鉢」があります。
すなわち、自分の欲望に基づいて食べ物を口に入れるというプロセスをわざと切断して、他者から食べ物をもらって口に入れるというやり方をとることであり、誰かが食べ物を恵んでくれなかったら飢えて、最終的には死んでしまう。ただこれは、「食べ物を一切とらない」といって自殺するわけでもなく、いいものを食べるためにあくせく働くという選択でもなく、その中間にあるのだと言えます。
つまり、食べ物を食べるという生きる上でどうしても生じてしまう因果論的宿命に対して、そうやって微妙な“遊び”を設けている。ここに、「修業」として人生を生きるという、自由意志の発現の余地を見出していくのが、仏教のとってきた戦略なんですね。
同様に、11月30日にしし座から数えて「因縁」を意味する8番目のうお座で上弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、どうしたら流されがちな因果や必然性の強化にあらがい、自由意志を発展させていけるかがテーマとなっていくでしょう。
物語の書き換え
「自由意志を発現させる」を仏教的に言い換えれば「悟る」ないし「発心する」ということになりますが、仏陀が悟りを開いた際に体験した内容について、ドイツの仏教学者ヘルマン・ベックは次のように描写しています。
無数の世代にわたり、自分と他の生き物たちの生涯を観察し、次々に快楽と苦痛、好運と不運に遭遇したことをすべて知り、それぞれの生涯において、自分の名が何で、どの家柄、どの階級、どんな生活環境であったか、それぞれの生涯の寿命はどれほどであったか、ということを想起する。(『仏教』)
多くの人は「悟り」への過剰な神聖視や誤解から、こうしたことはあくまで特別な人の特別な体験であって、自分には関係がないと思ってしまっているように思います。しかし、仏陀が体験したことようなことは、仏陀ほどではないにせよ、私たちの誰もが少なからず経験しうることであり、すでに体験していることなのではないでしょうか。
例えば、これまでの人生を鑑みたりあり得たかも知れない過去を振り返ってみて、自分が望まなかった現実やそこから逃げたかった真実、あり得たかもしれない選択肢が何であったのかをはっきりさせる努力をしていくとき、私たちは「自分」という登場人物を媒介に、好運と不運、虚構と現実、客観的歴史と主観的物語といった二項対立の境界を破って横断し、過去やこれまでの人生を再解釈していくことができます。
今週のしし座もまた、これまでどこか自明なものとしてとらえてきた自分の人生を、書き換え可能な物語として、必要なら赤字を入れ、あるいはプロットを組み替えることで、別解釈を導入していくことができるかも知れません。
しし座の今週のキーワード
善果を積むとは、因果論に自由意志をかましていくこと