しし座
いのちの重なり
瓜二つの境遇
今週のしし座は、「白魚をすすりそこねて死ぬことなし」(斎藤玄)という句のごとし。あるいは、死にきれずに残ったものを改めて受け取っていくような星回り。
すすり損ねることのある「白魚」とは、おそらく生きてそのまま飲み込むような踊り食いのそれなのでしょう。掲句を詠んだ作者は、末期の大腸がんでしたから、周囲が少しでも生命力を与えようと考えたのかも知れませんし、本人もまた生きた白魚に回復への期待を少なからず託していたはず。
けれど、作者はそれをうまくすすれなかった。それは単にうまく口へ運べなかったというより、飲み込まれてしまう小さな命を憐れに思ってしまったのかも知れません。とにかく、誰の思惑通りにもいかなかった。
そのうえで、失敗してもなお死ななかったことに驚いているのです。もちろん、だからと言って病いが癒えた訳ではまったくありませんし、以前として死はすぐそこまで近づいてきています。それでも、頼りなくも確かにここにある生のふしぎな手触りに、改めて「死ぬことなし」と感じ入っている。そして、奇跡的に難を逃れた白魚といまの自分の境遇がまったく同じであることに気付いたのでしょう。
3月3日にしし座から数えて「死と再生」を意味する8番目のうお座で新月を迎えていく今週のあなたもまた、ふとしたことからみずからの生が別のシーンへと切り換わったことに気が付いていくかも知れません。
「有漏」から「無漏」へ
明確な目的を持たずにあちこちをほっつき歩く「うろうろ」の「うろ」とは、本来「有漏」という字をあてる仏教用語なのだそう。
もともと「漏」とは穢れや煩悩の意であり、あれかこれかと思い悩んだり、決断しかねて迷っていく中で、いつの間にか次なる目的地やそこへの道のりさえも忘れてしまう。そういう状態にある人間のことを「有漏」という訳です。
ただし、そうして思いの限りまでうろつきまわり、うろうろしきってしまうと、今度は反対に「無漏」へと転じ、そこでやっと安心して死出の旅路に出ていった。この「有漏」から「無漏」への転換点というのは、掲句において白魚のいのちと自分のいのちが重なった瞬間の気付きとほとんど同じであるように思います。
おそらく、そこで開けた死出の旅路というのも、いい加減定まったり思い出されたりした、次なる新たな方向性の比喩としても解釈できるはず。その意味で、今週のしし座のあなたもまた、そうした転換点を間近に控えているのではないでしょうか。
しし座の今週のキーワード
今ここにある生のふしぎな手触り