しし座
孤独か、自己充足か
どこまでいっても人は孤独
今週のしし座は、「ふわふわ」というオノマトペ(擬態語)のごとし。あるいは、無理や無茶からまぬがれつつも、孤独な漂いに回帰していくような星回り。
自分の足で立つ。それは個人の精神的進歩の象徴をする出来事であり姿勢であると同時に、かつて寄りかかりあって生きていた頃の甘美な夢の喪失であり、覚醒という名の呪いでもあります。
特にしし座の人たちにとっては、無理を承知のやせ我慢(彼らの得意技)にも通じる、みずからの宿命のようなものとも言えるかもしれません。
臨床心理学者の霜山徳爾は、それゆえに人は「直立のたえがたい孤独から救う」ものを常に求めているのだと述べていますが、こうした孤独感は、大地へ「直立」することへの拒否から生ずる「浮遊」においても、「ふわふわ」というオノマトペが醸し出す多幸感とは裏腹に特段ぬぐい去られることはないように思います。
例えば、風にまかせて空を飛び、あるいは流れにまかせて水中を漂う最中においてであれ、そこでは他の誰かに寄りかかったり、支えあったりして自身の存在の乏しさを確かに分かち合っているという充足感は欠落しています。
「ふわふわ」する中で、喪失した甘美な夢を取り戻し、覚醒という呪いを解除しても、人間どこまでいってもやっぱり孤独なのだということを、今週のしし座は図らずも痛感していくことになるでしょう。
「知覚の扉」を開けていく
作家オルダス・ハクスレーが自身で幻覚剤メスカリンを使用した意識の変容体験記『知覚の扉』の巻頭には、神秘主義詩人ウィリアム・ブレイクの詩から次のような一節が引用されています。
「知覚の扉澄みたれば、
人の眼にものみなすべて永遠の実相を顕わさん」
メスカリンとはもともとペヨーテというサボテンの一種から取れる成分で、かつてのアメリカの原住民たちにとってペヨーテは極めて崇高な存在であり、まさに意識を未知の次元へと誘う「知覚の扉」だった訳です。
ただそうした古き共同体には、見知った世界を抜け出したいと急ぎ焦る若者に対して「お前はまだその準備ができていない」と釘を刺してくれる長老格が必ずいたものでしたが、今日の現代社会では、そうした緩衝材はほとんど機能しなくなりました。
だからこそ、自分自身で、自分の心にノックして、確認しなければなりません。「本当に扉を開けるのか?」と。それは孤独ではありますが、どこか爽やかな満ち足りた自己充足の始まりとも言えるかも知れません。
いずれにせよ今週のあなたは、自分の世界がどこまで開かれているのかを自分の手で確かめていくことになるでしょう。
今週のキーワード
直立と浮遊を行き来す