しし座
カタルシスと充足
虚無感を乗り越えるには
今週のしし座は、「年年歳歳花相似たり 歳歳年年人同じからず」という劉延芝の詩のごとし。あるいは、「人生はみじかく、はかない」という命題について自分なりに検討して、1つの解を見出していくような星回り。
「どうせ死ぬんだから、どう生きようが、大した意味なんてないじゃん」
そんな虚無感にとらわれてしまうことは、人生で少なくとも一度や二度はあるものです。もちろん、大人になればそんなことさえ思う暇もなくなっていく。
けれど、人は何かの拍子につまづいて死にかかり、それでももう一度生きようとする時、突如として、これまでの自分がそうした虚無感といかに向き合い、乗り越えてきたかという地の部分が問われていくことになるのです。
もしかしたら、今あなたはそんな山場のひとつを迎えているのかもしれませんね。そうであるほど、冒頭の詩は誰しもが逃れることのできない「客観的」な時間の現実をうたっていると感じられて、重々しく感じられるでしょう。
けれど、時間というものは主観的であり「相対化」可能なのだということを、私たちはつい忘れがち。つまり、私たちが持つ時間の感覚は、実は「作られた」ものであり、「そうじゃない」時間感覚も存在するのだと。
例えば『時間の比較社会学』を書いた真木悠介は、本書の中で近代人の時間感覚をさまざまに相対化しつつ、「そうじゃない」の感覚について次のように述べています。
いわく、
「われわれが、現時充足的な時の充実を生きているときをふりかえってみると、それは必ず、具体的な他者や自然との交響のなかで、絶対化された「自我」の牢獄が溶解しているときだ」
と。
自分の人生において、真実味を感じた瞬間について、今週はよくよく振り返ってみるといいでしょう。
一回性の神秘
かつて、いにしえの時代の旅人にとって、旅とは故郷やこれまでの暮らしとの別れであり、もう二度と再会できないかもしれないという決定的な断絶を意味しました。だからこそ旅立ちは「切ない」ものであり、そこには確かなカタルシスがあったのです。
ひるがえって、電話やネットでいつでも再会の機会を持ちえる現代社会では、目の前の誰かと「もう二度と会えないかもしれない」といったいじらしい緊張感は極限までゆるんでしまっていますし、それに応じて「感情の強度」も薄まってしまっているように思います。
もう二度と出会うことはないのかもしれないからこそ、過去でも未来でもない、今のここの1点に集中する。そういった出会いと別れをめぐる現実の真実味を、今週は道の脇から拾い上げていくことになりそうです。
今週のキーワード
現時充足的な時の充実