しし座
熟慮することと求愛すること
「希」抜けの「哲学」について
今週のしし座の星回りは、さながら確定されていた定義のゆらぎ。たとえば、「哲学」という語のささやかな歴史について。
「哲学」というと、しっかりと体系だって作りあげられた思想信条として肯定的なものと受け止められ、人によっては後生大事にありがたがりさえする訳ですが、実際のところ「哲学」って何のことを指しているのでしょうか?
もともと、「哲学」という言葉の直接の原語は英語の「フィロソフィー」であり、これはギリシャ語の「フィロソフィア」の音をそのまま移したもの。
これは「フレイン(愛する)」という動詞と「ソフィア(知恵)」という名詞を組み合わせた合成語で、「知を愛する」つまり「愛知」という意味なのですが、ただ実際のところ「愛知」なんて言葉は日常で使うには不自然すぎる。
どうも当時としても「知的好奇心旺盛な」とか「知的で賢い」くらいのぼんやりとした意味合いをもたせ、動詞で使われるのが一般的だったようで、それをはっきり特殊で限定的な意味で名詞として使った最初の哲学者が、ソクラテスでした。
そして、日本最初の哲学研究者である西周(にしあまね)は、江戸時代にそれを講義の中で「希哲学」と訳しました。
「哲」というのは「賢(かしこい=知を有する)」という言葉と同義であり、意味としては筋が通っていたのですが、明治に入るとそれが「哲学」となってなぜか「希」が削られてしまい、知を「愛し願う」という最も大事な部分が消えてしまった。
つまり、「哲学」という言葉はたいへんな誤訳なんです。
プラトンの『饗宴』の中でソクラテスは、知を愛し求める者としての哲学者は、知をまだ持っておらず、無知だからこそそうするのだという持論を展開しましたが、日本語の「哲学」という言葉からはこうした「無知の自覚」という意味がきれいさっぱり抜け落ちており、むしろ何か大層立派な考えを既に所有しているというニュアンスになってしまっている訳です。
今週のあなたの動きは、まさにそんな「哲学」からいつの間にか抜けていった「希」という文字をどうにか取り戻していくことと、どこか通じているように思います。
目隠しをとる
それにしても、先に動詞的に使われていたものが名詞的に使われるようになって、「哲学」となったという「哲学」をめぐる語の歴史は、じつに示唆的ですよね。
本来の意味で、世界や自分が在るとはいかなることなのかを問う「哲学すること」は、いつからラベリングされた答えの比較検討すなわち「哲学」史研究になってしまったのか。
これは巧妙な罠なのではないかとさえ疑ってしまう。なぜなら、何かを愛し求めていると、人はびっくりするほどその何かと1つになっていってしまうから。
自分が本当のところで願い求めているものは何か。今週は改めて目隠しを取っていくつもりで、自分の望むものに注意していくとよいでしょう。
今週のキーワード
詭弁を排する