ふたご座
思いがけず生きていく
私事と公共の交錯
今週のふたご座は、「新聞の追悼抄に出る人の齢はおほかたわれより低し」(北浦輝彦)という歌のごとし。あるいは、思いがけぬところで、自分を貫く糸の存在に気が付くような星回り。
有名な人が亡くなると、新聞に記事や追悼文が載る。たまたまそうした文章を目にして、年齢のところでハッとする。自分より若い、と。それが何度か続けば、どんなに鈍感な人でもこれまでとは別の考えが展開され始める。
いくつまで生きたのか。自分と比べて、どれくらい中身のある人生を送ったのか。そういった疑問が一瞬のあいだに頭をよぎった後、いま自分が死んだら……などと想像するのだ。
「職業は自称〇〇になるのかな」とか「うわっ、もう少しまともな写真撮っておけばよかった」とか。
いずれにせよ、視点はすっかりパブリックな側へと反転し、そこで自分が年齢とか職業などを通して直接見も知らぬさまざまな人たちと繋がってしまっていることに改めて驚く。
そうなのだ、いつだって私たちは私事と公共とが絡まり合った現実を生きている。今週はそんな感慨とともに、パブリックな文脈から自分の事を見つめ直していくことになりそうです。
苦界としてのパブリック
現代は、いわば「死に甲斐喪失の時代」と言えます。
過去のある時代には、おおやけに認められた「大義」というものがあり、それが誰かにねつ造されたまやかしであったとしても、「喜んで死ぬ」ということがありましたし、それは同時に、そういう風に生きるべしという倫理観でもあったのです。
しかし、今日においてはそうした倫理観はほとんど失われました。
この世にある限り、果てしなく業を重ね、救いのない世界を生きていかねばならないのです。それどころか、業によって発生する因果応報のおよぶ先は、あの世においても次の生まれ変わり先でも未来永劫、果てしなく続いていく。
それが、あなたがこの世に生まれてきたということであり、苦界を生きるということの恐ろしさでもあります。
それでも、おのれが人間であることの謎やそのおぞましさを汲みとり、全身で思い知っていく先にこそ、やわらかな後光のようなものが差してくるのではないか。
今週のキーワード
『苦界浄土』