
ふたご座
裏切りと挑発を秘めること
命知らぬ者として
今週のふたご座は、「あはれ知命の命知らざれば束の閒の秋銀箔のごとく滿ちたり」(塚本邦雄)という歌のごとし。あるいは、成熟の落ち着きよりも未完の輝きに賭ける美学を貫いていこうとするような星回り。
「知命」とは論語の「三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知る」という孔子の言葉。けれど作者は実際に五十歳になって「知命」の齢を迎えても、おのれの天命=定めなどわからないと言う。
ただ、作者はそうして嘆くふりをしながら、実のところその“知らなさ”をこそ美の極点として肯定しているのではないか。すなわち、人間は悩んだり迷ったりの繰り返しの果てに時間をかけて成熟し、少しずつ完成に近づいていくものという一般的ないし伝統的通念を真っ向から拒み、むしろ「命知らず」であることは未熟でも愚かでもなく、永遠の感受性の証しであり、おのれを完成させ硬化してしまうことへの抵抗に他ならないのだと。
この歌の中心にあるのは、「束の間の秋」という表現であり、それはもののあはれを宿す季節である秋のはかない時間性を強調しつつ、「銀箔のごとく満ちたり」と畳みかけることで、そのはかない秋を欠落や衰退としてではなく、逆にまるで時間の一瞬が金属的な光沢を放ちながら世界を包む、最も眩しい美の飽和点として描き直していく。
銀箔は、貼ればすぐに剥がれ、触れれば粉となる脆い素材。しかし光を受ければ、あらゆる色を反射し、世界を映す鏡ともなる。作者はこの「脆さゆえの反射力」に、みずからの生の姿を重ねていたのかも知れない。
10月30日にふたご座から数えて「誓い」を意味する9番目のみずがめ座で上弦の月(行動の危機)を迎えていく今週のあなたもまた、五十にしてなお世界に恋し、なお美の断片に震える“命知らず”の作者のように、ハードコアな信条を守り抜くための宣言を行っていくべし。
あえて語り尽くさない
江戸最大の劇作家・近松門左衛門は、『難波土産』(1738)の中で「芸といふものは実(じつ)と虚(うそ)との皮膜のあいだにあるものなり」「虚にして虚にあらず、実にして実にあらず、このあいだに慰みがあるものなり」と書きました。
つまり、あまりに直接的な事実だったり、余りにでたらめなウソばかりでは、人の胸には真実らしさとして迫ってこない、リアリティもない。虚と実との微妙な“あわい”にあって、起伏をつくり、その境界をあいまいにすることによって初めて、一抹の真実を含んだ芸術となり得るのだと説いた訳です。
それを体現している装置が、例えば人形浄瑠璃における「黒子(くろこ)」であり、慣れない最初こそ人形を操る黒子の存在は目障りで気になるものの、やがて黒子によって人形に命が吹き込まれ、その演技がこちらの想像力を増幅させることに気が付いていくはず。
この表現法について、元田與一はこう述べています。「近松は『あはれなり』と書くだけで、あわれさが醸しだされると考えることの愚かさを力説」し、「描き尽くさないこと、演じ尽くさないことによって、逆に多くを語りだそう」(『日本的エロティシズムの眺望』)としているのだと。
これは先の句の「知命の命知らざれば」という措辞に、知命の教えを踏まえつつ、それをあえて裏切る挑発を含ませていたり、あえてペラペラな「銀箔」を比喩に出して自身の充足を語ってみせた作者=黒子の意図を見事に裏書きしているように思います。
今週のふたご座もまた、実と虚のあわいに立ちつつ、どうしたら語り尽くさないことで多くを語ることができるのか、改めて自分なりに試行錯誤していくべし。
今週のキーワード
「芸といふものは実と虚との皮膜のあいだにあるものなり」







