
ふたご座
徹頭徹尾自分のため

ただ一度きりの命として
今週のふたご座は、「滝の上に水現れて落ちにけり」(後藤夜半)という句のごとし。あるいは、世界に触れ、姿を変えながら、落ちていく一滴の水になりきっていくような星回り。
古来、「滝」はしばしば神の宿る、ないし魂が浄われる神聖な場所、あるいは、人生の無常の象徴とされ、例えば『万葉集』では「たぎつ滝」に万感の情が託され、『古今集』では「岩くだけて白糸の滝」と繊細な美に転化されたりしつつ、いずれも感傷的・情緒的なニュアンスを込めて詠まれてきました。
しかし、作者のこの句はそれらとは語り口も構図もまったく異なります。ここにあるのは、感情や象徴の介入をほとんど許さない、視覚と思考のギリギリの臨界点のような景であり、いのちの運動性そのものが言葉の中でほとばしっているような印象さえ受けるはず。
注目すべきは、「水が落ちた」のではなく、「水が現れて落ちていった」という表現です。ふつう「滝」と言うと、すでに水が流れ落ちている静的な状態を前提としているものですが、ここでは滝壺の上の、水が落下し始めて(流れ落ち始めている)落ち口に意識を集中させ、そのさらに上に盛り上がった水が音もなくあらわれては、直後に一気に姿を変えていく‟動的な運動体”として滝を捉えているのです。
「落ちにけり」の「けり」の余情もまた、ここでは感傷的な詠嘆というより、一気に落ち切ってしまったという出来事の確定と完了の響きでしょう。それは詩人が静と動、生成と終焉、現前と消滅がひとつながりの線上にあることを直感し、未来や過去の時間の流れが一滴の水に凝縮されてしまったかのような強烈な詩的瞬間となった特異点でもあったはず。
7月7日に‟自分自身”の星座であるふたご座に「現状打破」の天王星が移っていく今週のあなたもまた、そうした動的な運動体としての滝の水さながらに、何かしらの様変わりを遂げていくことになるかも知れません。
蝋燭の画家
ここで思い出されるのが、生涯にわたって蝋燭の絵を描き続けた高島野十郎という画家のことです。一度、都内で開催されていた個展を見に行ったことがあるのですが、数十枚もの小品の蝋燭の絵がずらりと並んでいる光景はなんとも異様でした。
蝋燭の火は確かに明るい色彩で描かれているのですが、その焔の下部には必ず深い瑠璃色が使われており、それはちらつく焔に呼応するように広がった闇の色そのものでした。
高島はこうした蝋燭の絵を、展覧会などに出展する作品としてではなく、いわんや売るためでもなく、身近な者へ直接手渡すための贈呈品として描き続けたのだそうです。まるで献灯の儀式のような宗教的な行為ですが、高島はきわめて小さな画面のなかに、永遠に果てることのない光を刻み込み、自身の思いをやはりそこに「凝縮」させていったのです。
その意味で、蝋燭の絵は高島と贈られた者との濃密な関係性を媒介する<縁>そのものでもあったとも解釈できる訳ですが、個人的には、それは決して「利他の精神」とか「相手のため」に描かれたものなどではなく、徹頭徹尾自分のために行われたエゴ丸出しの行為の結晶だったように思います。
ゆえにこそ、高島は燃えさかる焔の中に彼なりの「執念」とも「ほとばしり」ともつかない、言葉にならない思いを刻んでは、みずからの生を更新することができたのではないでしょうか。その意味で今週のふたご座の人たちもまた、徹頭徹尾自分のための行う行為へと不意に誘われていくことでしょう。
ふたご座の今週のキーワード
献灯の儀式





