
ふたご座
厄介さが顔を出す

「さわらぬ神」にあえて「さわる」
今週のふたご座は、「さわらないではいられない」みずからの中の物の怪に追われて。あるいは、どう考えても「さわらない方がいい」に決まっているのに、「さわることなしには生きていけない」ものにさわっていこうとするような星回り。
かつて作家の車谷長吉は「因果づく」という随筆のなかで、文学をやるとか小説を書くということは、どこか夜中に歌を歌ったりするのと似て、元来「なりの悪いこと」であり、自分の中の寝た子を起こして「変(へん)が出来(しゅったい)する」ことに他ならないのだと述べていました。
そして、それは日本社会で昔から最上のこととされてきた「地道に生きること」と正反対の在り方なのだと指摘した上で、そうであるにも関わらずそういう生き方しかできない人間もいるのだとして、次のように書いています。
世の中には、「さわらぬ神に祟りなし」ということがある。その「神」とは、ある場合は、人の中の闇にひそむ魔物と言い換えてもいいだろう。(…)書くということは、その「神」にあえて「さわる」のであるから、得体の知れない恐ろしさに囚われるのも、因果応報と言えば因果応報ではあるが。けれども、「さわらないではいられない」因果づくの物の怪に追われて「さわる」のであって、魔物に「さわった」途端、こちらの生き血が吸い取られる。が、当たり「さわり」のない話だけ書いていたのでは、文学にならない。
文学はどうのを抜きにしても、人生というのは得てしてそういう厄介さや‟にがさ”を含んでいるものなのではないでしょうか。
その意味で、5月4日にふたご座から数えて「サバイバル」を意味する3番目のしし座で上弦の月(行動の危機)を迎えていく今週のあなたもまた、おのれの因果というものをつくづく実感させられていきやすいはず。
フェイ・ウェルドンの『魔女と呼ばれて』
平凡ではあるが、有能な主婦であった主婦が夫に捨てられることから始まるこの小説は、冷水を浴びせられたような極めて冷え冷えとした読後感を与えるものの、そこには明確に戦闘的で男を憎む女性の元型―神話的にはアマゾネス―の現われが見出されます。
ドラマから抜け出してきたかのような"女らしい女”のもとへと走って去っていった夫から「おまえは魔女だ!」と怒鳴られた瞬間、彼女はメラメラと目覚めるのです。「もしわたしが魔女なら、わたしはなにをしてもいいんだ」と。
ここではその具体的な復讐の中身はさておくとして、大事なのは彼女はきわめて稀なオカシい人なのではなく、社会や男性が求める女性像とは異なる女性的元型をもともと持っていたのではないか、ということ。
というのも、かつての時代そして現代においても、男性や子どもに無関心であるような女性というのは「あってはならないこと」とされがちで、しばしば神経症的で病的だと見られがちだから。
その意味で、今週のふたご座もまた、「物の怪」であれ「魔女」であれ「アマゾネス」であれ、自分のうちに潜んでいる元型にできるだけ素直に向き合っていきたいところです。
ふたご座の今週のキーワード
「当たり「さわり」のない話だけ書いていたのでは、文学にならない。」





