
ふたご座
存在=対話

親密さと距離感の両立
今週のふたご座は、ドフトエフスキーの長編小説のごとし。あるいは、気を緩めることなく結びつきながら、距離をとろうとしていくような星回り。
ロシアの思想家であるミハエル・バフチンは、数ある小説家の中でドフトエフスキーの長編小説には他にない突出した特徴を持っているとして、次のように述べています。
自立しており融合していない複数の声や意識、すなわち十全な価値を持った声たちの真のポリフォニーは、じっさい、ドフトエフスキーの長編小説の基本的特性となっている。作品のなかでくりひろげられているのは、ただひとつの作者の意識に照らされたただひとつの客観的世界における複数の運命や生ではない。そうではなく、ここでは、自分たちの世界をもった複数の対等の意識こそが、みずからの非融合状態を保ちながら組み合わさって、ある出来事という統合状態をなしているのである。
一般的に小説家が書いた作品では、登場人物は作者の分身であるがゆえに、作者と登場人物たちは対等ではなく、そこで展開されていくのはおのずと対話というよりモノローグに近いものとなっていきます。それに対してドストエフスキーの長編小説では、作者も登場人物もそれぞれ自律した世界を持ちつつ、決して安易に融けあうことのない対等な意識として対話が成立しているのだというのです。
バフチンはここから一歩踏み込んで、すべての人間というのは未完成・未完結な存在であると同時に、そうした人間同士の「対話がおわるときすべてはおわる」したがって「対話はじっさいおわることはありえないし、おわるべきでない」という「存在=対話」というたいへんに過激な思想を展開していきます。
3月14日にはふたご座から数えて「存在基盤」を意味する4番目のおとめ座で月食満月(大放出)を迎えていく今週のあなたもまた、対話的な交通のための余白をおおいに解放していきたいところです。
自己完結的になるのはもうやめよう
セバスチャン・ブロイは2017年に刊行されたイギリスの批評家マーク・フィッシャーの『資本主義的リアリズム』のあとがきにあたる「諦めの常態化に抗う」という文章の中で、次のように問いかけています。
資本主義は欲望と自己実現の可能性を解放する社会モデルとして賞賛されてきたにもかかわらず、なぜ精神健康の問題は近年もこれほど爆発的に増え続けたのだろう?社会的流動性のための経済的条件が破綻するなか、なぜ、私たちは「なににでもなれる」という自己実現の物語を信じ、ある種の社会的責務として受け入れているのだろう?鬱病や依存症の原因は「自己責任」として個々人に押しつけられるが、それが社会構造と労働条件をめぐる政治問題として扱われないのはなぜだろう?もし資本主義リアリズムの次代において「現実的」とされるものが、実は隙間だらけの構築物に過ぎないのであれば、その隙間の向こうから見えるものは何だろう?
ブロイのこうした問いかけは、あきらかに、私たちがそれぞれに体験している「傷つけられた生」を、単に「個人の物語」として自己完結的に捉えてしまわないように、という忠告を含んでいます。すなわち、そうした自閉的な世界に閉じこもって「対話」を放棄している限り、先の問いの答えはいつまでも明かされないままだぞ、という極めて現実的な指摘をしているわけです。
今週のふたご座もまた、なんとなく感じていたモヤモヤや不安感をうやむやにせず、きちんと自分なりの言葉にして、ダイアローグを紡いでいくべし。
ふたご座の今週のキーワード
「対話がおわるときすべてはおわる」





