ふたご座
島と島であるということ
「いき」のシンボル
今週のふたご座は、着物の縞(しま)柄のごとし。あるいは、身近な誰かとどこまでも互いに自由であることを認め合えるような自分であろうとしていくような星回り。
江戸文化研究家の田中優子は『江戸百夢 近世図像学の楽しみ』の中で、着物の縞(しま)柄つまりストライプ模様に触れつつ、次のように述べています。
九鬼周造は『「いき」の構造』の中で、「模様としての縞」が『いき』と見做されるのは決して偶然ではない」と書いた。なぜなら、「いき」の表現は「媚態」のもっている二元性を表わしていなければならず、「永遠に動きつつ永遠に交わらざる平行線」としての縞は、その二元性のもっとも純粋な表現だからだ、と。
いったいこの媚態の二元性とは何か。九鬼によれば「一元的の自己が自己に対して異性を措定し、自己と異性との間に可能的関係を構成する二元的態度」のことである。ひらたく言えば、惚れた相手と同一化したいと思っているあいだの緊張した状態のことだ。だから、完全に同一化してしまえば関係は「いき」でなくなる。しかし個人と個人が完全に同一化するなどあり得ないことだから、幸福な幻想さえもたなければ、惚れ合っていてもおおいに「いき」であり得る。縞とはつまりそういうことの現れだと思うと、着物の文様もばかにできない。
この場合「いき」であり得る縞は横縞でなく縦縞でなければいけない。縦縞は「軽巧精息の味が一層多く出ているため」だ。
ところで、この“縞”というのはもともとセイラス島、ベンガラ島、サントメ島、チャンパ島などの東南アジアの「島」のことだったのだそうです。つまり、やがて「いき」の象徴となる縦縞はアジアの古い記憶を宿した文様であり、それを取り入れていった日本とアジアの関わりにこそ、高度な「いき」の精神の原点があったのかも知れません。
6月21日にふたご座から数えて「持ち物」を意味する2番目のかに座に太陽が入っていく(夏至)今週のあなたもまた、縞柄の着物や小物をさりげなく身につけ、文字通り「いき」の精神を我が身に宿してみるといいでしょう。
山田詠美『ぼくは勉強ができない』の会話
あんたは、すごく自由に見えるわ。そこが、私は好きだったの。他の子みたいに、あれこれと枠を作ったりしないから。でもね、自由をよしとしてるのなんて、本当に自由ではないからよ
この小説の主人公である高校生の秀美くんは、彼女の言葉を受け止めつつ、こう考えます。
もしかしたら、ぼくこそ、自然でいるという演技をしていたのではなかったか。変形の媚を身にまとっていたのは、まさに、ぼくではなかったか。ぼくは、媚や作為が嫌いだ。そのことは事実だ。しかし、それを遠ざけようとするあまりに、それをおびき寄せていたのではないだろうか。人に対する媚ではなく、自分自身に対する媚を。
そして最後に、こう結論づけるのです。
人には、視線を受け止めるアンテナが付いている。他人からの視線、そして、自分自身からの視線。それを受けると、人は必ず媚という毒を結晶させる。毒をいかにして抜いて行くか。ぼくは、そのことを考えて行かなくてはならない。
今週のふたご座もまた、秀美くんのように、学校の勉強とは違った「勉強」をしていくことになりそうです。
ふたご座の今週のキーワード
あまり無毒になると、それはそれでつまらない