ふたご座
持続的抵抗のために
終わりなきダンス
今週のふたご座は、理性に対して「私は克服などされない」と声を上げる“自然”のごとし。あるいは、新しい合理化の波へとおのれを一致させていこうとするような星回り。
ギリシャ神話におけるセイレーンは、鳥の姿で人間の頭、または女性の胸、腕を持っており、 また竪琴や二本笛を奏で、それに合わせ歌を歌うこともありました。人間が御しえない激しい自然の象徴としてのセイレーンの歌とはどんな性質のものだったのでしょうか。
セイレーンが崇拝されている地では彼女たちは神託の女神だったとも言われていますが、「歌う」(ラテン語の「カントー」)とは本来また、「呪いをかける、魔法にかける」(「インカントー」)ことを意味していましたから、それは世界の再魔術化であると同時に、合理化への反動ともとれます。ただ、実際にはどの時代にも合理化と反合理化への衝動は共存していて、再魔術化に見える現象が、実際には一種の新しい合理化でもあるということは、十分にありえる訳です。
哲学者の池田晶子は、その点について『人生は愉快だ』のなかで、「そして、なお深い思索が開けてゆくのは、じつはここからなのであって、対立物がそこにおいて同一であるところのそのもの、生が死であり死が生である、生死がそこから出てくるそのもの、それの何であるか」と喝破していましたが、人間と自然との関係性というのも、そうした終わりなきダンスのようなものなのかも知れません。
5月23日にふたご座から数えて「向き合うべきもの」を意味する7番目のいて座で満月を迎えていく今週のあなたもまた、自分の知的興奮の源泉がセイレーン的なるものとの終わりなき闘いのうちにこそあるのだとひしと実感していくことでしょう。
搾取と互恵の違い
温又柔の『魯肉飯のさえずり』という小説があります。就活に失敗し、逃げるように結婚を選んだ主人公の桃嘉が、これ以上ない理想の夫との生活の中で、少しずつ何かを踏みにじられていくところから展開していくのですが、そこで次のようなやりとりが出てきます。
「わたし、聖司さんにばっかり甘えてたくないの。もちろん聖司さん以上に稼ぐのは不可能だけど、わたしにもできることがきっとあると信じたい」と提案する主人公の桃嘉に対して、夫の聖司は「お金のことは気にするなよ」「奥さんと子どものために稼ぐのは、男にとってあたりまえのことなんだからさ。それに俺は、桃嘉に甘えられるのが嬉しいんだよ」と答える。
それに対し「桃嘉は軽い絶望をおぼえる」。なぜなら、彼女が言いたかったことが夫の聖司にはまるで伝わっていないから。彼女は夫に自分へのケアを愁訴し、それでも彼の言動にそれが欠如していることに傷ついている訳ですが、それでもそういう夫の主観が形づくる世界になびくのでなく、彼女なりに抵抗することができている。
こうした桃嘉の在り様もまた、先の「新しい合理化」が具現化した一例と言えるのではないでしょうか。聖治の堅牢な主観をのせた声は、さながらセイレーンの歌のように、こちらの精神や明晰さを萎えさせるものですが、少なくとも彼女はまだ正気を失っていない。正気を保ち続けることができれば、戦いを続けていくことはできるのです。
同様に、今週のふたご座もまた、みずからが実現したい世界を象徴する原理を、何よりもまず自分自身が体現していけるかどうかが問われていくはず。
ふたご座の今週のキーワード
利己主義と利他主義の自分なりのバランス