ふたご座
歩くテンポを少し変えてみよう
春の山の気分
今週のふたご座は、『吾(あ)を容(い)れて羽ばたくごとし春の山』(波多野爽波)という句のごとし。あるいは、ゆるむがままに自分を囲う線をにじませていくような星回り。
春の山は、極限まで張り詰めたような雰囲気のただよう冬の山とは対照的に、何ともなつかしい感じがただよう、気やすい場所である。
関連句に「原稿投函そのまま春の山にいる」とありますから、神経を要する仕事からの解放感もあいまって、その気やすさは天にも昇るようなほど軽やかなものとなっていたはず。
掲句も、おそらくは心がふっと動いていくのに任せて、普段着のまま、サンダルやぺたんこ靴でもつっかけて、春の山の気分を満喫していたときに生まれたものなのでしょう。木々が芽吹き、鳥たちがさえずり始めた春の山にいると、自分まで背中から羽根が開いて、一緒にどこかへ飛んでいってしまいたくなる。
その意味で、いわば掲句は個の意識や競争的な価値に偏った人間存在とは一線を画した、植物や虫や一部の動物たちが持ち得ているような「世界身体」の感覚について詠まれたものとも言えるかもしれません。
3月20日にふたご座から数えて「世間の拡張」を意味する11番目のおひつじ座で春分(太陽のおひつじ座入り)を迎えていく今週のあなたに求められていくのも、より一層身を固めて損をしないよう賢く振る舞うことなんかではなく、むしろバカになっていくことなのではないでしょうか。
遊歩者の矜持
19世紀末に生まれ、近代化の過程でどんどん複雑化していく都市に魅了され、分析の対象にしていったベンヤミンは、「遊歩しながら街について考えることは、“舗道の植物採集”みたいなもの」と述べ、あるいは「通行人や屋根やキオスクのバーは、足元で折れる森の小枝のように…さまよい人に語りかけるはずだ」と書きました。
こうした「遊歩」は、通勤ラッシュに食らいつき、もっぱら職場と自宅の往復に勤しんでいる現代日本の都会人からはずいぶん遠いものになってしまいましたが、そうしたサラリーマン根性への反動から、再び「遊歩」を取り戻そうとしている人も少なくないのではないでしょうか。
生産過程が(機械によって)加速されるとともに、そこでの退屈が生まれてくる。遊歩者は悠然とした態度を誇示することで、この生産過程に抗議する。(「セントラル・パーク」、『ベンヤミン・コレクション1─近代の意味』)
そう、ベンヤミンにおける「遊歩」とは、行政や新自由主義経済への黙認なのではなく、むしろそうした黙認に伴われる憂鬱な生のテンポへの抗議表明なのであり、そうであるからこそ「採集」は遊歩者にとって生き生きとしたものである訳です。
その意味で、今週のふたご座もまた、これまでの袋小路から脱け出していくきっかけをつかんでいくことがテーマとなっていくはず。
ふたご座の今週のキーワード
憂鬱な生のテンポへの抗議表明