ふたご座
行きずりの美
九鬼の偶然論の本質
今週のふたご座は、「双子の微笑」という比喩のごとし。あるいは、心地よく美しいあわいの間をととのえていこうとするような星回り。
「偶然」について哲学的に考察した九鬼周造は、偶然性の基本構造に芸術的な美の起源を見出していくくだりで、仏詩人から「双子の微笑」という比喩を引用していました。
ポール・ヴァレリーは一つの語と他の語との間に存する「双子の微笑(sourires jumeaux)」ということを云っているが、語と語との間の音韻上の一致を、双子相互間の偶然的関係に比較しているのである。(『偶然性の問題』)
これは例えば、小野小町の「花の色は移りにけりないたづらに わが身世にふるながめせしまに」という歌の「ふる(降る/経る)」「ながめ(長雨/眺め)」のような掛詞(かけことば)を想定してみると分かりやすい。偶然の音の重なりによってまったく異なる意味の概念性が出合い、結びつけられていくことで出来上がる妙には、人のこころを捉えて離さない何かがある。
偶然ほど尖端的で果て無い壊れやすいものはない。そこはまた偶然の美しさがある。偶然性を音と音との目くばせ、言葉と言葉の行きずりとして詩の形式の中に取り入れることは、生の鼓動を詩に象徴することを意味している(同上)
音韻と意味との「行きずり」の出合い、その「あわい(間/淡い)」において、はかなさだけでなく唯一性を見ようとしたのが九鬼の偶然論の本質であったように思います。
10月29日にふたご座から数えて「無意識的な関連性」を意味する12番目のおうし座で満月を迎えていく今週のあなたもまた、ふと生じる邂逅(かいこう)や、一瞬のうちに重なり、そしてまた離れていくような偶然的関係における“ふれあい”を大切にしていきたいところです。
折口信夫『山越しの弥陀増の画因』の一節
民俗学者の折口信夫はエッセイ『山越しの弥陀増の画因』の中で、山越しの阿弥陀仏を描いた数々の来迎図について語りながら、「私の物語なども、謂わば、一つの山越しの弥陀をめぐる小説、といってもよい作物なのである」と言います。
この「私の物語」とは、折口が生前唯一のこした小説『死者の書』のことで、中将姫という高貴な少女のはじめての恋と、若くして非業の死を遂げた皇子の生涯最後の恋とが時空をこえて出会い、切なくすれ違っていくラブロマンスです。そして、先のエッセイのなかで、この小説を書いたことについて、こう述べているのです。
そうすることが亦(また)、何とも知れぬかの昔の人の夢を私に見せた古い故人の為の罪障消滅の営みにもあたり、供養ともなるという様な気がしていたのである。
この「古い故人」が誰かは折口は自分の口からは明かしませんでしたが、その後には日本人の積み重ねてきた意識や象徴が重要なのであって、私個人のことではない、「私の心の上の重ね写真は、大した問題にするがものはない」のだと続けています。
同様に、今週のふたご座もまた、自分の過去や記憶の上を通り越して現れ出てくる何か重要なモチーフや象徴にふいに感応していくことがあるかも知れません。
ふたご座の今週のキーワード
語りえないものを語ること