ふたご座
不可視なものを育てるために
謎の中に生きる道
今週のふたご座は、預言者エゼキエルの妻の死のごとし。あるいは、自分がまさに人生という謎の最中にあることを感じていくような星回り。
エゼキエルというのは、旧約聖書に登場するBC6C頃のユダヤ人の預言者なのですが、人物的な詳細は不明で、分かっているのは祭司の家系に生まれ、バビロン捕囚によって強制移送された一人であり、難民社会に住んでいたこと、そして何より、妻がエルサレムの陥落前夜に亡くなったことぐらいだそうです。聖書には彼は妻の死の前に、神から次のような言葉を受けたと記されています。
人の子よ、わたしはあなたの目に喜びを、一撃をもって奪い去る。悲しみに沈むな。人知れず呻け。死者のために喪に服すな。ターバンを巻き、足には履き物を履け。口髭を覆わず、嘆きのパンを口にするな。(24章16~17章)
たいへん過酷な命令です。人前でうめくなというだけでなく、いつも通りに生きろと言っている訳です。そして実際、妻はその日の夕方に亡くなってしまう。しかし、預言者の生涯からすると、これは単に悲しくつらい出来事だったというだけではなく、自身の使命と神とのつながりの深さを証された、非常に大事な啓示だったはず。
つまり、エゼキエル自身の立場に立てば、胸に大きな悲嘆を抱え、困惑しつつも、同時に神を感じていた。神のはたらきの通路となりつつあったのであって、その時、神はエゼキエルにとってひとつの大きな謎となって現われていたのではないでしょうか。
8月31日にふたご座から数えて「応答」を意味する10番目のうお座で満月を迎えていく今週のあなたもまた、安易に答えを求めるなかで誤る代わりに、自分なりに悩み、苦しむことをおおいに受け入れていくべし。
安易な“分かりやすさ”で塗り潰さないこと
詩が真正であるとき、人はそれによって苦しみから救われることがあります。とはいえ、日常に氾濫する言葉が、がまんできないほど軽々しく、まずしくなってしまっている昨今では、そうした明快で深い真実はますます忘れられがちになっています。が、それゆえに、その貴重さや価値もまたかえって際立ってきているように思います。
例えば、生の喪失と痛みを秘めたパウル・ツェランの詩には、しばしば硬質な隠喩が登場します。終わってしまった愛の時間について「ぼくは咲き終わった時刻の喪章につつまれて立ち」と表現され、夏の草地につけられた一本の小径について「空白の行が一行、」(中村朝子訳)と表現される。こうした日常と硬く対立したところで構築された隠喩やその訳語は、この国の詩と言葉の柔らかさをいっしょくたにしてしまううんざりするような風潮とは、明確に一線を画していることがわかるはず。
もちろん、それはギリギリのところで成立している危うい稜線歩きのようなもので、やりすぎれば意味が繋がらなくなる転落の危機に陥る一方で、異なる体験の質によって書かれたことばを無理やり手馴れた日常言語の枠内に押し込めようとすれば、その本来の魅力や詩としての真正さは失われてしまうでしょう。
その意味で、今週のふたご座もまた、悩み苦しむことを巡ることばの軽々しく、まずしい使用に反旗をひるがえしていくべし。
ふたご座の今週のキーワード
危機を通して通路はあらわれる