ふたご座
一人で抱えきれないからこそ、言葉にするのだ
語り口の問題
今週のふたご座は、ハンナ・アーレントの語り口のごとし。あるいは、深刻で誰もが口にしたがらないことほど、あえて自分なりに語っていこうとするような星回り。
かつてユダヤ人の思想家ハンナ・アーレントは、1961年に行われたナチスのユダヤ人虐殺の最高責任者として追及されたアイヒマンの戦争裁判を取材し書かれたルポルタージュ『イェルサレムのアイヒマン─悪の陳腐さについての報告─』をめぐって、特にそのどこか皮肉で乾いた“例外的な”「語り口」ゆえに、同胞であるユダヤ人社会から3年にわたって集中砲火にあいました。
それは彼女が、都会的で洒脱な雑誌である『ニューヨーカー』誌の特派員という形でルポを書いたことも大いに関係していたはずですが、のちにドイツのテレビのインタビュー番組で、この問題について彼女自身は自分の口で次のように述べています(加藤典洋「語り口の問題」より)。
それについてはどんなふうにも反論できませんし、しようとも思いません。もし、これが悲壮な仕方でしか書けない主題なのだとしたら……、いいですか?いまなおこうしてわたしが、笑うことができるということをすら、悪く取る人がいます。そしてわたしは一定程度そういう人を理解しています。わたしとしては、実際のところアイヒマンが道化であることがはっきりわかった、彼のたしか三六〇〇頁にも及ぼうという警察の尋問調書を読んだのです。で、何度笑ったか知れません、何度吹きだしたことか!人はわたしのこういう反応を曲解したのです。それについてはどうにもできない。でも自分でわかることがひとつあります。わたしはたぶん、わたし自身が死ぬ三分前でも笑うでしょう。
ここでは彼女の最も深く秘められた動機付けとしての「悲しみ(grief)」が、その対極的な情緒としての「嘲弄」と勘違いされるギリギリの語り口を得ることで、やっと自己の外へと出口を見出しているように感じます(その副産物としての笑い)。
16日にふたご座から数えて「コミュニケーション」を意味する3番目のしし座で新月を迎えていく今週のあなたもまた、あくまで第三者として、どこまでも冷静に、ルポルタージュしぬこうとしていくべし。
クレメンタインの歌
ネサランア ネサランア(おお愛よ、愛よ)/ナエサラン クレメンタイン(わがいとしのクレメンタインよ)
ヌルグンエビ ホンジャトゴ(老いた父ひとりにして)/ヨンヨン アジョ カンヌニャ(おまえは本当に去ったのか)
敗戦によって突如「日本人」から「朝鮮人」へと押し返されたというアイデンティティークライシスを少年期に経験した詩人の金時鐘は、はじめて父親からこの歌を聞かされた時から30年以上の歳月が経過した1979年に発表したエッセイ『クレメンタインの歌』を、次のように結んでいます。
誰が唄いだして私にまできた歌なのか。どうあろうとこれは私の「朝鮮」の歌だ。父が私にくれた歌であり、私が父に返す祈りの歌なのだ。私の歌、私の言葉。このかかえきれない愛憎のリフレイン――
金にとって、父がその生き方をかけて唄っていたクレメンタインの歌は詩に他ならず、それは後にそれに匹敵するものを、自分もまた語っていきたいと思うに至った大きな契機でもあったはず。
今週のふたご座もまた、そうした自分があえて語るべきことを、それにふさわしい仕方でいかに語っていくか、ということが自然とテーマになっていくでしょう。
ふたご座の今週のキーワード
かかえきれない愛憎のリフレイン