ふたご座
感傷をこえて
外なるまなざしから
今週のふたご座は、『泥鰌浮いて鯰も居るというて沈む』(永田耕衣)という句のごとし。あるいは、あまりに人間的な枠組みから距離を取って、“あっけらかん”と過ごしていくような星回り。
暑気払いには熱いものを、汗を流しながら食べるのが一番。という訳で、汁物や鍋にして食べる「泥鰌(どじょう)」は昔から夏の季語とされ、田や小川などに棲息しているところを人間に捕まえられてきました。
ところが、掲句ではそんな泥鰌が作者のところにやってきて、「鯰(なまず)も居るよ!」と言い残して、また泥の中へと沈んでいったというのです。なんだかコントのようなノリですが、「泥鰌ばっかり捕ってないで、鯰もとれよ」と言い付けに来ているところなのでしょう。ここでは、人間も泥鰌も鯰も並列に存在しているように感じます。
とはいえ、句意としてはそれ以上でもそれ以下でもない。あえて人間的な感傷を寄せつけず、内容としても奥深くならないよう、あっけらかんと書いてあります。
作者の句には老いや死など、普遍的で重たいテーマを念頭に詠まれたものが多いのですが、掲句の場合、命ある者らの命運を人間社会を超越した「外なるまなざし」から眺め、独特の軽みをまじえて取り扱うことで、ある種の「神話」を産み出しているのだと言えるかもしれません。
7月10日にふたご座から数えて「オープン・ネットワーク」を意味する11番目のおひつじ座で下弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、社会の内部にではなく、その外部へといかに自己を開いていけるかがテーマとなっていきそうです。
ソルジェニーツィンの目配り
スターリン時代から恐らくブレジネフの頃まで、ソ連にはおそらく数百の収容所があり、そこでは体制に批判的であるという理由で逮捕された約2000万人もの人々が不当に過酷な労働を強制されていました。
作者もまた友人宛の私信で体制批判を行ったというイチャモンを機に、8年にわたり余儀なくされた悲惨な収容所生活を記録した『収容所群島』では、ほとんど現実離れした全体主義のおぞましさや非現実性について、作者はこれでもかというくらい客観的にルポされていきます。
ただ、普通はルポルタージュと言っても、どうしたって書き手のバイアスがかかる。けれどソルジェニーツィンの場合は、「二十五人用の標準監房に百四十人」などと数字を多用したりすることで、あったことをできるだけあるがまま正確に描くことでバイアスを排そうとし、何よりルサンチマンがない。それゆえにこそ記録文学たりえた訳です。
具体的には、「××許すまじ」といった記述がなくて、代わりに「将校だった自分ももし逮捕されなかったら、逮捕する人間と同じ冷酷さを持っていただろう」なんて書いている。こうしたものの見方の先にこそ、やっと「外なるまなざし」は成り立つのではないでしょうか。
今週のふたご座もまた、あえておのれを含めた人間の未熟さや偏狭さを見つめていく中で、どれだけ現実への目配せを確かなものにしていけるかが問われていくでしょう。
ふたご座の今週のキーワード
脱・ルサンチマン