ふたご座
時間感覚の切り替え
「人生ははかない」は本当か?
今週のふたご座は、『年年歳歳花相似たり/歳歳年年人同じからず』という劉延芝の詩のごとし。あるいは、つくりものとしての感覚をいっそ溶かしていこうとするような星回り。
一見すると、この詩は「自然のそれと違って、人生はみじかく、はかない」という逃れがたい事実を歌っているように思われますが、よくよく考えてみるとそうではないということが分かってきます。
というのも、そうした認識自体は別に「客観的」である訳ではなく、むしろ全生物のうち人間のみが有する個別性に対する執着や、それのもたらす感傷みたいなものに過ぎないからです。「人生はみじかい」という時の「みじかさ」も、他と比べての相対的な短さへの不満というより絶対的なむなしさに対する嘆きがたまたまこういう形をとったのでしょう。
つまり、ここでは「時間」は事実というより感覚であり、“つくられたもの”である以上、心身の在り様や環境を変えてみることで“そうじゃない”時間感覚へと切り替えていくことだってできる。例えば、社会学者の真木悠介はそうしたオルタナティブな時間感覚について次のように述べています。
われわれが、現時充足的(コンサマトリー)な時の充実を生きているときをふりかえると、それは必ず、具体的な他者や自然との交響のなかで、絶対化された「自我」の牢獄が溶解しているときだ。
12月30日にふたご座から数えて「解放」を意味する11番目のおひつじ座で上弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、そんな「時間の相対化」ということが一つのテーマになっていくでしょう。
ひとでなしになる
つくりものとしての時間感覚を溶かすとは、しかし人工的な型をなくし、まともな人間でなくなっていくということでもあります。ただそれで、人はときどき自らを正しくエネルギーの場として思い出していったりもしているのではないでしょうか。
例えば、お母さんの中から産まれてくる胎児が大きな「螺旋」を描いて、ずばーんと生まれてくる時というのも、人はエネルギーそのものであり、まさに「大日如来の大不思議」のままに存在することができていた訳ですが、いつからか人は純粋な意味でエネルギーの場であることをやめ、その流れをゆがめてしまいます。
そういう意味では、かつてD・H・ローレンスが「文明とは何か。それは発明品などよりも、感性の生活のうちに、明瞭な姿をあらわす」と言ったのは、文明に対する痛烈な皮肉だったのだと言わざるを得ないでしょう。
その意味で、今週のふたご座も、「感性の生活」をまっとうしていくことで、滅多に拝むことのできないような「ひとでなし」になっていこうとしているのだとも言えます。
ふたご座の今週のキーワード
水面上の日の光のきらめきのような、自然な明るさを受けとっていく