ふたご座
到来すべきものの到来
覚醒コンテンツと麻痺コンテンツ
今週のふたご座は、『去年より又わびしひぞ秋の暮』(与謝蕪村)という句のごとし。あるいは、麻痺と覚醒ならば、覚醒をこそ選択していこうとするような星回り。
還暦(華甲)の年もまもなく過ぎ去ろうとしているある秋の暮、ことさら侘しさや寂しさを催して詠まれた一句。
秋の暮れが寂しいなんてことは、誰もが感じていることであり、もう飽きるほど詠まれてきたことなのに、それをこれほどあからさまに言うのは大胆と言うか、怖いもの知らずの句づくりと言っていいでしょう。
そういうタブーをあえて犯して詠んだのは、やはり相応の歳を迎えて初めて身に沁みてわかる「発見」というものがそこにあったから。同じ季節の訪れによって感じる寂しさが、去年にも増して深くなること。そして、この先一年、一年それが募っていくばかりであること。
しかしそれが「人生」という、“まだ何が起こるか分からないぞ”というニュアンスをつねに含んでいたはずのものの輪郭が、うっすら分かってきてしまったことのかなしさに由来するものであるとするならば、いつかは迎えなければならない“覚醒”を一足先に味わい、備えているのだとも言えます。
25日にふたご座から数えて「必要な準備」を意味する6番目のさそり座で新月を迎えていく今週のあなたもまた、蓋をして流してしまう代わりに、目を開いて視界の端に置くべきことを見定めていくことがテーマとなっていくでしょう。
「イノベーション」と「インベンション」
与謝蕪村は江戸時代当時は今ほど俳人として知られておらず、明治に入って正岡子規が「蕪村の俳句は芭蕉に匹敵すべく、あるいはこれに凌駕するところあり」と書いたことで、再評価が一気に進んでいきました。
子規は27歳で病いを得てから34歳で亡くなるまでの足掛け7年もの間、ずっと病床にありながら短歌や俳句の革新を成し遂げていった訳ですが、対象がなまなましく迫ってくるリアリズムを俳句において追求しようとしていた子規にとって、蕪村の存在は必ず世に知られ、到来せねばならぬものと映っていたのではないでしょうか。
つまり彼のやったことというのは、中に(in)来る(venir)の「インベンション(来るべきもの)」であって、「イノベーション(新しきもの)」ではなかった訳です。ああ、やっと待ち望んでいたものが来たと。
別に何でもいいんだけど、新しいもの(novelty)を見せつけて世間を(誰かを)アッと言わせてやれというのでは決してない。今週のふたご座もまた、そのあたりの違いということを、自分の身に引きつけて考えていきたいところです。
ふたご座の今週のキーワード
ただ独り待ち望むこと