ふたご座
繰り返しみる夢をなぞる
既視感の根底にあるもの
今週のふたご座は、ブリキの金魚の「赤」のごとし。あるいは、日ごろは精神の基底に潜んでいる根源的なものが顕現してくるような星回り。
無意識というのは個人的なものであると同時に、たぶんに集合的であり、それから家族的であったりもして、それが多くの既視感の根底にあるのではないでしょうか。例えば、島尾敏雄の『三つの記憶』と題された短編小説の冒頭に次のような箇所があります。
今なお感覚に強く焼付いているのは、私が幼くてまだひとりで歩けなかったときの、多分どこか人々によく知られた山の温泉場の家族風呂にさしこんでいた白昼の陽の光だ。(…)湯ぶねを区切ってうつしだされていたきつい明るさのなかで、私たちの白さは貧しく弱弱しく、私にあてがわれていたブリキの赤い金魚は、幼い私のなぐさみのはずなのに、何か凶悪なものの胚種のように思えた。それは私をひどくおびえさせた。自分をふくめて周囲の一切のものに、そのとき、私は不信の感情を植えつけられた気がしてならない。
あたかも「凶悪なものの胚種」のように思えたブリキの金魚の「赤」の印象は、単なる錯覚や気にしすぎといったものよりも、もっと根源的なものの顕現であり、家族的無意識や集合的無意識といったものと関係づけるなら、それらのあいだで共有している精神の基底に潜むグロテスクかつ残虐な部分を反映していたのかも知れません。
同様に、6月29日にふたご座から数えて「刻印」を意味する2番目のかに座で新月を迎えていく今週のあなたもまた、自分自身の胸のうちで今もなおうずきつづけている精神の刻印をあらためてその手でなぞり、確かめてみるべし。
アフリカ原住民の見た「鶏」
人間の知覚=精神の変容の歴史を扱ったマクルーハンの『グーテンベルクの銀河系』には、衛生監視員がアフリカのある部落で、衛生上の処理の仕方を映像で伝えた際のエピソードが紹介されています。その映像は作業の様子をゆっくりと撮ったものだったのですが、
映画を原住民に見せ、彼らが何を見たかを尋ねますと、彼らは一羽の鶏を見たと答えました。しかし、私たちの方では映画に鶏が写っているということは知らなかったのです!そこで、私たちはこの鶏がどこに写っているのか調べるために、フィルムを一コマずつ注意深く見て行きました。すると果たして、一秒間、鶏が画面のすみを横切るのが写っていました。誰かにおどかされた鶏が飛び立って、画面の右下の方に入ってしまったのでした。これが原住民たちが見たすべてだったのです。
画面全体を見るという約束事を知らない原住民にとって、映像の主題は衛生上の処理ではなく、たまたま映りこんだ鶏に他ならなかった訳です。同様に、彼らにとっての病気とは、個人のからだの故障などではなく、むしろ生活を脅かす未知の顕われであり、個人の悩みである以前に、部族全体にとっての予兆であり社会的な現象でした。
今週のふたご座もまた、そうした個人の領域をこえた無意識の深みに根ざした不安や因縁を感受していきやすいでしょう。
ふたご座の今週のキーワード
深い海の底で私はそっと泡になる