ふたご座
神を見る犬
目的論の無効化
今週のふたご座は、生きる目的を必要としない動物のごとし。あるいは、ありもしない自我の牢獄から抜け出していこうとするような星回り。
人間は一種の動物でありながら、目的なしには生きられないですし、それどころか、全生命の貫く進化の原理であれ、日々の仕事であれ、何事においても目的があるかのように振る舞いたがる強固な習性のようなものがあります。
そして、そうした習性を逆に利用されてしまっているのが「労働」の現場でしょう。日本社会は労働というものをやたらとありがたがるところがありますし、お国のためとか、家族のためとか、老後のためとか、いかにも正しそうな「目的」をこれまでやたらと盛り込まれ過ぎてきたように思います。
しかし、ただ生きているということ自体が罪であるかのように考えるのは、あくまでキリスト教の得意技であって、むしろ人類史的には「労働とは一種の屈辱である」と考えてきた期間や地域の方が一般的だったのではないでしょうか。
その意味で、17日にふたご座から数えて「喜び」を意味する5番目のてんびん座で満月を迎えたところから始まっていく今週のあなたもまた、生きているということそれ自体がとてもしあわせで、満ち足りている状態なのだという気付きへと立ち返っていきやすいはず。
アクィナスの指摘
キリスト教においては、「コンテンプラチオ」という言葉がその精神生活の理想とされてきました。これはもともとギリシア語の「テオリアtheoria(見ること、観想)」に由来する言葉で、通常は修道僧が人里離れた荒野や修道院で行っている内観としての修行などを指すのですが、カトリックの神学者ピーパーは『余暇と祝祭』の中で、より平易に“現実のなかで目を開くこと”と定義し直しています。
ピーパーによれば、中世の大神学者トマス・アクィナスは「愛のあるところ、そこに眼がある」と言ったそうですが、興味深いことに、アクィナスは「愛」の対立概念として「怠惰」を挙げているのです。
中世における「怠惰」とは、せっせと日々の仕事にいそしむ「勤勉」と対立するものではなく、むしろ十戒の第三の掟「あなたがたは安息日を聖なるものにしなさい」に背くものでした。すなわち、「神的なものに目を見開くこと」に逆行する積極的な行為と見なされたのです。このアクィナスの指摘は、なかなか言われてみなければ思いつかないのではないでしょうか。
今週のふたご座もまた、労働か否かという基準一辺倒で考えるのではなく、いかに怠惰の代わりに余暇を日常に持ち込むことができるかという基準をみずからに適用してみるといいでしょう。
ふたご座の今週のキーワード
“現実のなかで目を開くこと”