ふたご座
バトンの受け渡し
個人⇔弟子
今週のふたご座は、近代的な「個人」からの逃避行のごとし。あるいは、「弟子」という言葉の重みを思い出していくような星回り。
人間が持ちうる「信仰」というものは、ときに特定の宗教の教義を超えた強靭さを備えるにいたることがあります。例えば、ユダヤ人の思想家シモーヌ・ヴェーユが入信なき敬虔なひとりの信仰者であり、小林秀雄がドフトエフスキーや本居宣長を論じ、東京裁判を終えた大川周明が永遠の革命思想として『回教原論』をまとめたように。
特定の宗派に属するのではなく、みずから霊性と響きあう地平を生きることを選ぶことができたとき、そこに結果的に篤い信仰の痕跡ができている。少なくとも、そうした事例は滅多に見受けれられるものではないにせよ、歴史的にはいくらでも存在してきたことを私たちは既に知っています。
同様に、「弟子」というのも、単に師の門を叩いてその内側に属したり、誰かに教えを受けたりしたことがあるという、ごくライトな意味合いで使われる場合もありますが、もともとは結果的にそうであったことを知らされて初めて名乗ることができるものでした。
すなわち、師がそのまた師から受け継いできた霊的系譜とわかちがたく結びついたものであるということを、師に認められることで、人は「弟子」たり得たのです。
その意味で、3月10日に自分自身の星座であるふたご座で上弦の月(行動の危機)を迎えていく今週のあなたもまた、自分という存在が連綿と続いてきた縁のつながりの結果に過ぎないというところから、改めてテクスト(生)を紡いでいくべし。
手と手
古代ヘブライ人は「ヤード(YD)」という言葉に「力」「傍ら」「記念」などの意味を持たせて使用しましたが、この「ヤード」という名詞をもとに「手でする」を原意とする動詞やさらにその派生語が作り出されました。例えば、詩篇に次のような句があります。
暮らしを支えるために朝早くから夜遅くまで身を粉にして働いたとしても、それが何になるのか。主は愛する者に必要な休息をお与えになるのだから。(詩篇127・2)
原文を参照すると「愛する者」はヘブライ語で「友、親友」を意味する「ヤディド(YDYD)」という言葉で、語形から見ると「手と手」とも読むことができますが、これは「親交をもつ、仲良くする」の意味をもつ「ヤデド(YDD)」という動詞からの派生語なのだそうです。
つまり、真実の友とは言葉から生まれるものではなく、両手の手(行い)によって初めて成立する。黙したまま手と手が触れ合い、そこでじかに相手を知ることが、真の理解に繋がっていく。少なくとも古代ヘブライ人はそのように捉え、神(ヤハウェ)への賛美の詩を綴ったのです。今週のふたご座もまた、頭によってではなく“手”による理解や継承へと立ち返っていくことがテーマとなっていくでしょう。
ふたご座の今週のキーワード
黙手