ふたご座
覚悟を語る
俳句に命を取られても
今週のふたご座は、「青空に/青海堪へて/貝殻(かい)伏しぬ」(吉岡禅寺洞)という句のごとし。あるいは、おのれの生き様を浮き彫りにしていこうとするような星回り。
昭和10年(1935)に詠まれたもので、多行形式かつ季語が使われていない無季俳句となっています。作者は最初こそ五七五の定型や有季俳句から出発したものの、次第に新興俳句運動に関わるようになっていったために、この翌年には所属していた結社である「ホトトギス」から除名されます。「ホトトギス」がほぼそのまま俳壇を意味した当時の俳句界において、これは大変な出来事でした。
しかし作者は戦後になってさらに文語体や定型俳句との訣別を決定的なものにし、いよいよ口語・自由律・無季俳句を推進していった訳ですが、掲句はそんな作者の波乱の俳句人生を代表する一句と言えるでしょう。
暴力的なほどの青のまぶしさの後の貝殻のくらさが、心憎いほど絶妙なバランス感を放っていますが、それはまるでセンセーショナルでありつつも、どこか彼のその後の歩みを予見しているかのようでもあります。
7月28日にふたご座から数えて「信念」を意味する9番目のみずがめ座に逆行中の木星が戻っていく今週のあなたもまた、この先の人生の歩みを思い描きながら過ごしてみるといいでしょう。
捨て身でいるということ
例えば、人間だって狩りの対象であるはずの獣に殺され、喰われる可能性だって幾らでもあるはずで、本当の意味で自然と共に生きてきた人は、いつもどこかでわが身をときに自然に贈与することと引き換えに、獲物を得ているという感覚があるのではないでしょうか。
ひるがえって、私たちはどうか。大いなる自然の食物連鎖など知らぬ存ぜぬと言わんばかりに、金銭をもって獣や魚の肉を買い、安全な場所で食らう。もちろんそれは町場にいれば当然のことではありますが、自然の循環から遠く離れたところで、狩られた野生のいのちではなく、屠られた家畜の成れの果てを吸収し続けていれば、自身もまたいのちの枯れた死に体に近づいていくのもごく自然な成り行きであるとも思えてきます。
ある狩人は、「忍び撃ちは卑怯だ」と語ったという。数百メートルも離れたところから、ライフル銃で熊を撃つことを指して、ぽつりとそう言ったのです。恐らく彼らの中には、賭けにも似た、捨て身の贈与を介して初めて成り立ついのちの循環や脱人間中心主義的な思想が自然に息づいているのでしょう。その意味では、先のつぶやきこそ珠玉の俳句なのです。
今週のふたご座もまた、自分が捨て身で居られるフィールドを見出していけるかが問われてくるのだと言えるかもしれません。
ふたご座の今週のキーワード
「忍び撃ちは卑怯だ」