ふたご座
コオロギとパンク
パンクとはまず一徹であるということ
今週のふたご座は「蟋蟀のこの一徹の貌を見よ」(山口青邨)という句のごとし。あるいは、「余計なものなどいらぬ」と言葉以外の方法で伝えていこうとするような星回り。
蟋蟀(こおろぎ)の顔を改めてまじまじと見つめてみると、なるほど、たしかになかなか一本気な顔つきをしています。
鉱物学者としてひたすら勉学につとめてきた作者(高校時代は野球部のキャプテンでもあった)の自画像でもあるような一句ですが、と同時にこういう顔ができるようになるには何をどうしたらいいのだろうかと呆然としているようにも感じられます。
「目は口ほどに物を言う」ということわざがありますが、こおろぎの目は複眼で顔の大部分を占めている。
顔や目を動かすことなく、広い視野を一挙に見ることのできる複眼世界を人間はまだ再現することはできていませんが、いずれにせよその目つきが印象的なゆえに顔に一徹さがにじみ出ているのかもしれません。
今週のあなたもまた、キョロキョロと色んなものを見ようとするよりも、まずはこれと定めた事柄に一徹に臨んでいきたいところです。
寺山修司の言語感覚
鉱物学者とは対極にあるような日本のパンクシーンもまた、やはりある種の一徹さに裏付けられていました。
1950年代から80年代にかけてそうした日本のアンダーグラウンドに大きな影響を与え続けた寺山修司の言葉を、ここで3つほど引用しておきたいと思います。
「僕は恥ずかしき吃り(どもり)である。だが、吃るからこそ、自分の言葉を、自分の口の中で噛みしめることができるのだ。(『書を捨てよ、町へ出よう』)」
「歴史を変えてゆくのは、革命的実践者たちの側ではなく、むしろ悔しさに唇をかんでいる行為者たちの側にある。(『黄金時代』)」
「ダンス教室のその暗闇に老いて踊る母をおもへば 堕落とは何?(『テーブルの上の荒野』)」
彼の言葉には、いつも隠れた疑問符がついてまわっているように感じますが、それは与えられた幸福で人生への疑問を塗りつぶすような真似を、彼が決してしなかったから。
そうしたブレなさは、今週のふたご座が見習っていきたいところです。
今週のキーワード
言葉を噛みしめる