ふたご座
落書きはどこへ消えゆくか
透明になっていく
今週のふたご座は、公衆便所の壁に残された落書きのごとし。あるいは、語りながら消失してしまう詩人になっていくような星回り。
「公衆便所」も最近はめっきり明るく綺麗になってきました。
ですがそれでも、社会や共同体内の監視から逃れ得ているアジール空間として、長らくのあいだその壁は社会や共同体の内部に自分の居場所のない(と感じる)匿名者たちがおのれの存在と結びついた記号や常識を溶かし、社会性を獲得する以前の前言語的な意味実践に近づいていった限界面として、機能してきました。
きっと公衆便所がなかったかつての時代は、神社の裏の白壁が同じ役割を果たしていたはずですが、同じように今もまた公衆便所から別のどこかへとその役割は移行しつつあるように思います。
とはいえ、落書きする匿名者たちが才能や実力のなさゆえに消えていくのではなく、硬直化した視線や形骸化した制度や常識を自らの言葉ごと脱ぎ捨てていくがゆえに消えていくのはこれからも変わらないでしょう。
今週のふたご座の人たちもまた、いわば自分の使う言葉から透明にしていくことで、普段なら届かないような誰かへと言葉を届けていこうとしているのかもしれません。
おのれをどこに求むるか
近代アメリカを代表する思想家エマーソンは、「おのれを外に求むるなかれ」を座右の銘にしていたそうです。
著書『自己信頼』を読んでいると、その背景には彼が「自分にとって自分の心の奥で真実だと思えることは、万人も真実だと信じること―それが普遍的精神というものだ」と堅く信じていたことが大きかったことが分かってきます。
ここでそれをもう一歩押し進めるならば、たとえ自分以外の誰もがその背後に何も有意義な意味を見出さず、特別なことなど何もないと判断したとしても、あなた自身がその背後に力の気配や未来の胎動を確かに感じているならば、それこそ、あなたが求むるべき「おのれ」に他ならないのです。
今週はある種の「予感」に突き動かされていくようなところがあるでしょう。
そんな時は怖がらずに、先の「おのれ」のおもむくままに流れに身を任せてみること。
今週のキーワード
わたしからおのれへ