ふたご座
影と無と
信長と一休
今週のふたご座は、「仏に会うては仏を殺せ」という禅語のごとし。あるいは、過去の亡霊を一刀のもとに切り伏せていくような星回り。
禅語録の『無関門』には「仏に会うては仏を殺せ、鬼に会うては鬼を殺せ、親に会うては親を殺せ」という苛烈な言葉が書かれてあって、信長も一休もこの言葉を好んでいたと言います。
確かにそう言われてみれば、やっていることの次元や領域はまったく異なる二人だけれど、どこか共通したものがあるようにも思えてくる。
最近だとスティーブ・ジョブスが深く帰依していたことで知られる禅宗ですが、禅を実践する者というのは、“イデア”を殺せなければならない。
イデアとは、原義としては「見えている姿形」であり、哲学的には現象を超えて本当に実在しているとされる理念や理想であり、より日常的な言辞で表わすならば「〇〇であるべき」状態と言えます。
禅では、本当に語るべきことを語る際には、必ず否定する形でもって言い表わされます。
これは、例えば自分がどうあるべきかを考えたり語ったりする際にも、親だとか仏だとかロールモデルだとかの“イデア”を正面切って殺すだけのパワーを発揮していくのでなければ、本当の意味では考えたり語ったりすることはできない、ということなんです。
今週のふたご座は、それくらいのつもりで言葉を発していくくらいでちょうどいいでしょう。
無への通路
禅を深めるということは、言い換えれば、「自分の中に無への通路を作る」(中沢新一)ということなのかもしれません。
人間は、何かを所有したり自分の地位や立場を獲得したりしていくと、とたんに世界を小さくして所有しているような感覚を抱き始めて、やがて天然や自然ということが分からなくなっていきます。
まあ、預金通帳や定住そのものを投げ捨てろといっても、それができる現代人はいませんが、やはりどこかで人間死ぬと生まれてくるときはひとり、我独り在る、という感覚をどこかで持っておかないと、命というものがどうあるべきか、分からなくなってしまうのだと思います。
例えば山口誓子に「蟋蟀(こおろぎ)が深き地中を覗き込む」という句がありますが、時おりにでも、かくありたいものですね。
今週のキーワード
裸一貫