ふたご座
非我と自我の境界線
「私以外私じゃない」は本当?
今週のふたご座は、ゲスの極み乙女。の歌う「私以外私じゃないの」という歌詞に引っかかっていくような星回り。あるいは、自分という輪郭線をあらためて引き直していくこと。
この曲の歌詞はサビにいたるまでの冒頭部分で、ころころと変わってしまう自分の移ろいやすさへに対する虚しさが描かれているのですが、それを克服するかのように、
「私以外私じゃないの
当たり前だけどね
だから報われない気持ちも整理して
生きていたいの
普通でしょう?」
と歌詞が続いていきます。
「私以外私じゃない」というのは、論理的に考えてみればまさに当たり前のことではあるのですが、果たして本当に「私以外も私である」という状況は想像できないでしょうか?
これは、どこまでを「私」と規定するかでだいぶ違ってくる話です。
知的な人であるほど「私の考え」を「私」だと思っていたりしますし、逆に自分の経験したことを第一に置きたい体験主義者であれば「私の体験や感覚」こそ「私」であると、人によってそうした私の比重は微妙に変化してくるはずです。
あなたが、普段これこそ私だと思っているものだけが、本当に私なのでしょうか。
今週は「私以外も私である」可能性について、いつもよりもう少し力強く想像力を働かせてみるといいでしょう。
摩擦やズレを楽しむ
例えばある歌の歌詞が心に突き刺さってくるとき、そこでは想像力が産みだすプロジェクションマッピングが浮かんでいるはずですが、いわば「百聞は一見に如かず」が脳内で起きているのだと言えます。
逆に言えば、普段の私たちはバラバラに取得された言葉や記号などの「百聞」をひとつひとつ解釈しながら組み立てていくという作業を行っている訳で、そのうちのどの部分にフォーカスし、あるいは組み立ての基礎にしていくか、ということも大いに個人差があるはず。
VRやARなどはそうした個人さを取り払って、作者が提供しようと思った際のオリジナルを共感覚的に追体験してもらうということが発想の根本にある訳ですが、そこには1つの問題が出てきます。
つまり、最初から出来あいの体験パッケージを与えられ、インストールするだけでは、解釈の余地が生まれず、他者との差異を通じての自己発見といったことも起きなくなる、ということです。
今のあなたに必要なのもまさにそうしたパッケージ化の中で失われがちな、他者との摩擦やズレを楽しんでいくだけの余裕や実際の機会に他ならないでしょう。
今週のキーワード
「私以外も私である」可能性はつねにある