やぎ座
自らに魔を見出す
艶の出どころ
今週のやぎ座は、「魔の霧も掌と掌の温み奪へざる」(三好潤子)という句のごとし。あるいは、「やれるものならやってみなよ」と啖呵をきることで、腹を決め強くなっていくような星回り。
日本の美女の古典的典型とされる小野小町について、古今集の仮名序では次のように記述されている。「小野小町はいにしえの衣通姫の流なり。あはれなるようにて強からず。いわば、よき女のなやめるところにあるに似たり」。つまり、悩む女であるがゆえに美しいと。
掲句の作者は、恋のみならず、生涯にわたりさまざまな病魔に犯されてきた人だが、やはりその句にも悩む女ゆえの艶やかさが漂っている。
ただし、小野小町の艶が、吹けば流れて消えてしまうようなはかなさと繊細さを特徴としたのに対し、作者の艶はいささか自己欺瞞的な匂いさえ感じさせるポーズの巧みさと根底にある強靭さから発されているように感じられ、それはどこかでやぎ座の本質にも通じているようにも思う。
いや、実際には弱さも抱えているのだろう。けれど、それを決して大っぴらに見せずに内に秘めていくところに、やぎ座なりの艶というものが生まれてくるのでしょう。
自分の中のどうしようもなさを受け入れる
「純粋で、ほかの情念がまったく混じらない愛があるとすれば、それは心の底に隠されていて、われわれ自身も知らない愛である」
とは、人間の偽善や自己愛にきびしい皮肉をあびせるあのラ・ロシュフーコーの言葉であると言うから驚きだ。
こうした言葉と出会うと、やはり彼ほど冷静で知的な人物であっても、自分でも説明のつかない感情にとらわれるようなことが確かにあったのだと知れて、なんとなくやさしい気持ちになるから不思議です。
どんなに気丈に振る舞っていても、気分が落ちるときは落ちる。同様に、恋などしないと構えてみても、いつの間にか落ちているのが恋なのだ。
今週は、自分という存在の異様さ、あるいは、つかまえどころのないどうしようもなさをどれだけ自覚出来ているかどうかを問われていくかもしれません。
今週のキーワード
もう恋なんてしないなんて、言わないよ絶対