
やぎ座
ごった煮バンザイ!

未熟の惑星にて
今週のやぎ座は、幸福なだけではあり得ない人間の宿命を肯定せんとするミラン・クンデラのごとし。あるいは、誰かの愚かしさや未熟さに、それでも心惹かれ、みずから手を伸ばしていこうとするような星回り。
恋愛にしろ仕事にしろ、結局「ここにいるのは誰でもよかったんだよな」と感じたり思ったりすることは、いま社会ではそう珍しいことではないでしょう。けれど、一方で私たちはそんなことには耐えられない、という思いも抱えています。
かけがえのない自分でありたいし、自分にしかやり遂げられないことをやって死んでゆきたい、と。ミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』という小説は、まさにそうした「かけがえのない誰か」であることが、いかに重苦しく、面倒なことかを説いてくるのですが、その中でカレーニンという犬とその飼い主で夫(トマーシュ)を思う一途な女性テレザとの関係を考察したこんな文章があります。
人間と犬の愛は牧歌的である。そこには衝突も、苦しみを与えられるような場面もなく、そこには、発展もない。カレーニンはテレザとトマーシュを繰り返しに基づく生活で包み、同じことを二人から期待した。/もしカレーニンが犬ではなく、人間であったなら、きっとずっと以前に、「悪いけど毎日ロールパンを口にくわえて運ぶのはもう面白くもなんともないわ。何か新しいことを私のために考え出せないの?」と、いったことだろう。このことばの中に人間への判決がなにもかも含まれている。/人間の時間は輪となってめぐることはなく、直線に沿って前へと走るのである。これが人間が幸福になれない理由である。幸福は繰り返しへの憧れなのだからである。
確かに人間はあらゆることに飽きてしまうし、永遠に「満たされる」ということを知らない存在です。その意味では、作者の云う通り、男性といるよりも犬を愛した方がよっぽど幸せになれるのかも知れません。
とはいえ、たとえ不幸であったとしても、「かけがえのない存在」を選んでしまう人間を、作者はけっして笑いはしないでしょう。面倒でも、葛藤したとしても、やっぱり何者かであろうとしてしまう人間味そのものを、この小説はどこか深いところで肯定しているように思います。
同様に、6月11日に「肯定する働き」を司る木星がやぎ座から数えて「他者」を意味する7番目のかに座に移っていく今週のあなたもまた、誰か何かの不安的で未熟な在り様をこそ受け入れ、愛していく流れに傾いていきやすいでしょう。
異種混淆の宴
人は何かと自分のことを他者の力を借りずに単独で存在できていると思い込みがちですが、視点をミクロに移してみると、腸内細菌や皮膚の常在菌など、生きている以上つねに何かしらの菌や生き物に侵され、境界線を掻き乱されつつ存在しているのが実情なわけで。そうである以上、厳密な意味合いで他の生物から独立して存在し続けることは、人間において遺伝子レベルで不可能な事態なのだと言えます。
生命学者の中屋敷均は『ウイルスは生きている』の中で、こうした遺伝子の「ごった煮」状態は生命の進化においても不可欠だったのだとした上で、次のように述べています。
そこに他者と切り離した「自己」のような「純度」を求めるのは我々側の特殊性であり、生命に独立性を持ち得るものがあるとしたら、それは「我思う、故に我あり」とした我々の「観念」だけではないのかと思う。
このことは、幸福にもやはり「純度」を求めてしまう私たち人間のサガにも置き換えられる話なのではないでしょうか。
その意味で今週のやぎ座もまた、たえず誰か何かに掻き乱され、幸福の純度を下げられてしまう自身の在り方を、「そう悪くはないもの」と受け入れ、その状態をできるだけ楽しんでいくことがテーマとなっていきそうです。
やぎ座の今週のキーワード
「他の生物との合体や遺伝子の交換を繰り返すようなごった煮」





