やぎ座
ともに歩んでいる自覚
天の心はどこにある
今週のやぎ座は、『月天心貧しき町を通りけり』(与謝蕪村)という句のごとし。あるいは、寄り添い、一体化していける存在のありがたみに心打たれていくような星回り。
掲句はもともとこの形になる前には、「名月や貧しき町を通りけり」だったようです。よく晴れた日の静かな夜に、名月が貧しき町、すなわち、昼は働いて夜にやっと休めるような人たちが住んでいるところを通っていく。これでも特に問題ないように思えます。
しかし、「月天心(つきてんしん)」と口に出して言ってみると、明らかにそれはより生々しい心の在り様を指していることに気が付きます。天心には「空の真ん中」という意味もありますが、ここではむしろ、あれやこれやと、心がもやついていない、そんな「まっさらな天の心」という意味で使われている。それは「名月」という他人行儀な呼称とは一線を画すものであるわけです。
そして、そうした「天の心」が、ここでは貧しい人たちの生き様に重ねられている。現代では格差社会に対して、貧しい人たちがますます怒りを募らしている訳ですが、少なくとも作者が詠んだ貧しい人たちは、ただ置かれている仕事と生活に生きているだけで、余計なことは考えなかったし、こころが曇る余地もなかった。
だから、この句を読むと、そんな意味以前の世界、学問以前の世界を生きている人びとの暮らしや、つらいところもあるけれど生々しく生きている人びとの心に寄り添い、自身もまたそうした人たちの存在に力づけられていくうちに、作者は「月天心」という言葉をおのずと選んだのではないかと感じるのです。
9月29日にやぎ座から数えて「心の支え」を意味する4番目のおひつじ座で満月を迎えていく今週のあなたもまた、自分が肩の上に乗せてもらっている人たちの存在に、それとなく意識を向けてみるといいでしょう。
死者の集まり
以前、死について語り合う座談会に参加したことがあります。そこでは参加者それぞれが自分の思う死についての観念や思い入れ、身近なエピソードなどを語っていったのですが、その実そこにいる全員が死とは何かを知りませんでした。
というのも、死について語ろうとする者は死そのものについて語れる訳ではなくて、あくまで自分にとって身近だった死、すなわち死者の記憶について語らざるを得なかったから。そのために、死について語り合おうとすると、往々にして家族についての話となり、すると座談会は次第に生者の集まりから死者の集まりへとだんだんと反転していきました。
さらに、今はまだ生きている自分もやがて生の記憶を抱いて死者となる存在であることを自覚したなら、生きているか死んでいるかということは、存在の記憶が明滅している「現象」に過ぎなくなり、両者の区別もなくなったのではないでしょうか。
今週のやぎ座もまた、自分の背後にあってともに明滅している死者の存在だったり、彼らにまつわる記憶の底に沈んでいた断片がふいに思い出されていくかも知れません。
やぎ座の今週のキーワード
仮定された有機交流電燈