やぎ座
隷従か抵抗か
奇跡よりも明晰さを
今週のやぎ座は、「深い宗教的要請」という言葉のごとし。あるいは、「病める文化の症候」と向きあって、なんとか鎮めていこうとするような星回り。
精神医学者で文化人類学者のベイトソンの『精神と自然-生きた世界の認識論-』には、宗教的な堕落という話題をめぐって為された父と娘の対話形式で構成された「それで?」という一節があります。
父 私は長いこと宗教のためには一種の低能さが必要条件だと思っていた。そしてそれが耐えられないほど嫌だったのだが、しかしどうもそうではないらしい。
娘 ああ、それがこの本のテーマなの。
父 いいか、彼らは信仰を教え、降伏せよと説教する。しかし私の望みは明晰さにある。(…)魔術から宗教が発生したという伝統的な考え方があるが、あれは逆だ。宗教が堕落して魔術になった、そう考えるのが正しいと思う。
娘 じゃあ、パパの信じないことなって何なのか、それをお聞きしようかしら。
父 うん、例えばだな、雨乞いダンスの本来の目的が雨を降らせることになったとは、私は信じない。そんな浅薄なもんじゃない。もっと深い、何というか、人間もまたエコロジカル・トートロジー―つまり生命と環境を一まとめにした不変の真理だね―その中にちゃんと属しているんだというメンバーシップの肯定、そういう深い宗教的要請があるはずだよ。それを「雨が降りゃいい」などというレベルで見るのは、こっちが宗教的に堕落しているからだ。/宗教ってものは、いつも堕落に向かう傾きを持つ。堕落が要請されるとさえ言っていい。みんなして寄ってたかって、宗教をつくり変えてしまうわけだ。娯楽だとか政治だとか魔術だとか“パワー”だとかに。
娘 ESPとか、霊魂顕現とか、霊魂遊離とか、降霊術とか?
父 みんな野卑な物質主義を安易に逃れようとする誤った試みだ。病める文化の症候だよ。奇跡とは、物質主義者の考える物質主義脱出法さ。
ここのところ日本人は騙されやすくなったと感じる機会が増えてきましたが、ベイトソン風に言えば、それは「娯楽だとか政治だとか魔術だとか“パワー”だとか」に宗教的なものを堕落させようとする傾向が集団的に強まっているということでしょう。そして歴史を鑑みれば、こうした傾向は狂信的な集団倒錯が発生しやすい条件に他ならず、そうした状況がいつの間にか巧妙に準備されているように思えてならないのです。
24日にやぎ座から数えて「集団的無意識」を意味する12番目のいて座で上弦の月を迎えていく今週のあなたは、そうした堕落を抗って、ベイトソンのいうような、もっと「深い宗教的要請」(例えば「醜を含めた美」の追求など)に従っていくべし。
みずから進んで奴隷になる人たち
『エセー』を書いたモンテーニュの親友で、16世紀フランスの夭逝した一法官ラ・ボエシは、16歳ないし18歳のときに『自発的隷従論』という論文を書き上げました。
その中で彼は、王政だろうが民主政だろうが、いつの時代も少数者による多数の支配があり、圧制が維持されてしまうのは、そうした権力支配に寄生しそこから利益を得て追従している人びとがいるからであって、彼らの隠れた原動力である「臆病と呼ばれるにも値せず、それにふさわしい卑しい名が見当たらない悪徳」に対して「自発的隷従」という名を与え、掴みだし、見えるようにしたのです。
ラ・ボエシいわく、自発的隷従の原因は習慣と教育であり、「みずから進んで奴隷にな」っている人というのは、そうすることがあまりに自然となっているため、もはや従属を従属として意識せず、自分たちこそ「自由」を得ていると思い込み、権威から認められることを名誉とし、権威に近づくことを誇りとすることで「従属を抱き締めている」のだと。
これは例えば、戦後のアメリカと日本の関係、特に日本の政界・財界などのエリートたちだったり、脱サラや一発逆転を経てYouTuberやインフルエンサーなどへ転身し、みずからのサクセスストーリーを大真面目に語る若者たちなどを思い浮かべれば、今日でもまったく古びていない核心的な指摘だということが分かるでしょう。
今週のやぎ座もまた、改めて自分が「自発的隷従」に陥っていないか確かめた上で、自分が心から拠り所にして従っているものとは何なのかを問うてみるといいでしょう。
やぎ座の今週のキーワード
資本主義は宗教に見えない宗教