やぎ座
聖なるもの、いちご、余暇
2つの思い出
今週のやぎ座は、『生きて食ふ苺すつぱくて大好き』(土井探花)という句のごとし。あるいは、思わぬところで新たな自分を見出していくような星回り。
苺といえば、2つの思い出があります。1つは、以前友人の家へ遊びに行った際、風邪をひいてご機嫌斜めだったはずのその家の子どもが、大好きな苺を食べ始めたら途端に機嫌が治って、体調までよくなってしまったのを見て以来、個人的にどこか信仰にも似た気持ちを抱くようになったということ。
もう1つは、大学の授業で参加した「苺のメディテーション」のこと。これはまず最初に苺に対してふだん抱いているイメージを紙に書き出してから、心を落ち着けるため5分程度瞑想をしてから、五感、さらには体内感覚まで全開にし、自分のペースでゆっくり食べることを意識しながらていねいに苺を食べる。そうして食べ終わったら、感じたことを紙に書き、グループでシェアするというもの。
いずれの思い出にも共通していたのが、たった一粒の苺に思いもよらぬ驚きがあったこと。そして、「赤い」「かわいい」「誕生日」「すっぱい」などのテンプレ的なイメージが見事に覆されたということです。
おそらく、掲句の作者にとってもそれはどこかで通底していたはず。想像以上にすっぱかったし、そこで蘇ってきた「自分」という感覚や、思いがけず飛び出してきた「大好き」という言葉に、自分でもどこか驚いたのではないでしょうか。
その意味で、6月11日に自分自身の星座であるやぎ座へと「死と再生」を司る冥王星が戻っていく今週のあなたもまた、どこかびっくり箱から飛び出してくるような仕方で自分を再発見していくことができるかも知れません。
アクィナスの指摘
キリスト教の修道僧のあいだでは、長らく「コンテンプラチオ」という言葉がその精神生活の理想とされてきました。これはもともとギリシア語の「テオリアtheoria(見ること、観想)」に由来する言葉で、通常は修道僧が人里離れた荒野や修道院で行っている内観としての修行などを指すのですが、神学者のヨゼフ・ピーパーは『余暇と祝祭』の中で、この言葉についてより平易に“(人為をこえた)神的なものに目を開くこと”と定義し直しています。
ピーパーによれば、中世の大神学者トマス・アクィナスは「愛のあるところ、そこに眼がある」と言ったそうですが、興味深いことに、アクィナスは「愛」の対立概念として「怠惰」を挙げているのです。
中世における「怠惰」とは、せっせと日々の仕事にいそしむ「勤勉」と対立するものではなく、むしろ十戒の第三の掟「あなたがたは安息日を聖なるものにしなさい」に背くものでした。すなわち、余暇のなかで「神的なものに目を見開くこと」をせず、むしろそれを怠ったり、抑圧したりすることこそが「怠惰」と見なされたのです。このアクィナスの指摘は、なかなか言われてみなければ思いつかないのではないでしょうか。
今週のやぎ座もまた、いかに怠惰の代わりに余暇を、みずからの精神に持ち込むことができるかということが問われていくでしょう。
やぎ座の今週のキーワード
「愛のあるところ、そこに眼がある」