やぎ座
率直に公開しよう
てらいなく
今週のやぎ座は、『手に何もなく秋晴を歩くこと』(富安風生)という句のごとし。あるいは、自分を大きく見せるような真似の一切を打ち捨てていこうとするような星回り。
作者65歳頃の作。一見すると、ある秋の日に老いの静けさを噛みしめたというだけの平凡な句なのですが、その平穏さの中には意外に強いこころや鍛えられたものが潜んでいるのを感じます。
「手に何もなく」とは単に手ぶらであるという以上に、余計なものを何ら手にする必要がないということでしょう。つまり、戦時中のように武器を手の取ることを迫られることもなければ、若い頃のようにあれもこれもと欲張ることもなくなって、最低限必要なものを必要な分だけ携えることができるようになった。
そのありがたみを確かめるかのように、句は音節的には「手に何も/なく秋晴を」で切れており、まず手元に、そして彼方にと視線を天地にめぐらせつつ、スッとみずからの歩みを配置させていくのです。
それはあたかも、庭の飛び石において若さが表面の起伏や大きさに向かいがちであるのに対し、老いの円熟がちょうどいい石の配置の妙に落ち着いていくのにも似ています。
同様に、9月23日にやぎ座から数えて「円熟」を意味する10番目のてんびん座に太陽が入座する(秋分)今週のあなたもまた、平凡に見られることを恐れず、静かな道を淡々と歩いていくべし。
自分とかわした約束
1992年に出版された本の中で、詩人として言論活動を開始し、後年は思想家として知られるようになった吉本隆明は、当時20歳だった終戦時を振り返ってこう書いています。
わたしには遠い第二次大戦の敗戦期にじぶんとひそかにかわした約束のようなものがある。青年期に敗戦の混迷で、どう生きていいかわからなかったとき、わたしが好きで追っかけをやってきた文学者たちが、いま何か物を云ってくれたら、どれほどこのどん底の混迷を脱出する支えになるかわからないとおもい、彼らの発言を切望した。だがそのとき彼らは沈黙にしずんで、見解をきくことができなかった。(中略)その追っかけはそのときじぶんのこころにひそかに約束した。じぶんがそんな場所に立つことがあったら、激動のときにじぶんはこうかんがえているとできるかぎり率直に公開しよう。それはじぶんの身ひとつで、吹きっさらしのなかに立つような孤独な感じだが、誤謬も何もおそれずに公言しよう。それがじぶんとかわした約束だった。(吉本隆明『大状況論』あとがき)
すべてが終った事後に、誤らない考えを明らかにするのは簡単でしょう。しかしそこに言論としての意味と価値が本当にあるかと問えば、必ず心にひっかかる何かがあるはずです。
今週のやぎ座もまた、たとえ誤りうるとしても、事態のさなかで、リアルタイムに自分の口で語ることを大切にしていきたいところです。
やぎ座の今週のキーワード
混迷した状況のなかでつとめるべきこと