やぎ座
「不遇の自分」という亡霊
心理学的な「出家」
今週のやぎ座は、能『井筒』の諸国一見の僧のごとし。あるいは、みずからをできるだけニュートラルな状態において向き合うべき“亡霊”に相対していくような星回り。
能『井筒』では、助演役であるワキの僧が「これは諸国一見の僧にて候。我このほどは南都七堂に参りて候。又これより初瀬に参らばやと思ひ候」などと名乗るところから始まりますが、この「諸国一見の僧」とは特定の宗派に属さずに、国家に支配されることを拒んで、全国を見物しながら遊行念仏や修行をして回る漂泊の僧侶のこと。
そんな、たまたまその場にいて、たまたま事のなりゆきを知っている「一見の僧」がいて、そこに能の主役である「シテ」が現れる訳です。これはたいてい「あの世の」人ですね。恨みや情念をこの世に残した亡霊で、お面をかぶってる。そしてそんな「シテ」の話を「ワキ」はじっと聴いていくのです。
なぜそんなことができたかと言うと、「一見の僧」は出家をしていたから。つまり、この世との直接的な関係はできるだけ持たずに、すこし距離を置いている。心理学的には、この世とあの世の対称性を保ちながら、あちらもこちらもきちんと見る、ということです。
これは『井筒』という作品がそもそも、作者である世阿弥が60歳になって出家した後に作った作品だったという背景も大きく影響していたと思います。
同様に、17日にやぎ座から数えて「エゴの縮小」を意味する8番目のしし座で満月を迎えていく今週のあなたもまた、ある種の心理学的な「出家」をはかっていくには絶好のタイミングと言えるでしょう。
「女時」の自分を見つめていく
あなたの中にある倦怠、虚脱感、退屈さ、そしてそれらの原因となっている心の重荷や不純物をただ静かに見つめ、相対していくことが出来たとき、それは他の誰かに対する傾聴の理想形がひとつ完成した瞬間なのだと言ってもいいでしょう。
例えば、能の大成者である世阿弥は、「男時・女時」という言葉を用いた日本最古であろうスランプ論の中で次のように述べています。
去年盛りあらば、今年は花なかるべき事を知るべし。時の間にも、男時・女時とてあるべし。いかにするとも、能のよき時あれば、必ず悪き事またあるべし(去年大いに運もついて調子がよかったならば、今年はこれといった華のない年になることを覚悟すべきだ。タイミングにも「男時・女時」というものがあって、どんなに優れた才能の持ち主であれ、どんな努力を重ねてきた者であれ、良い出来につながる時もあれば、かえって悪い出来につながってしまう時もあるものだ)
女時(めどき)、つまり運のつかない時、調子の出ない状況にある時、その最良のやり過ごし方は、いたずらにその状況に抗うのでも、さっさと逃げ出してしまうのでもなく、まずじっくりと「女時の自分」に付き合い、向き合っていくことではないでしょうか。出家した時の世阿弥はまさに自分が不遇の時期=女時にいるという自覚を持っていたはず。今週のやぎ座もまた、そんな心得を大切にしていきたいところです。
やぎ座の今週のキーワード
傾聴